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やまゆり園事件から4年に寄せて Part 1

やまゆり園事件から4年に寄せて
Part 1

古本聡



今年ももうすぐ7月26日が来る。そう、4年前の2016に障害者施設・神奈川県相模原市にある津久井やまゆり園で重度障害者大量殺傷事件が起こった日だ。同園元職員の植松聖の手により19人が殺害され26人が重軽傷を負わされた。そして今年の3月16日、横浜地裁において同人に死刑判決が下され、控訴しなかったためそれが確定した。

「障害者は、他人のお金と時間を奪っている」

「障害者は社会にも経済にも貢献していない。だから死ぬべきだ。」

「日本は借金がもう1000兆円もある。重複障害者を生かしておくために、莫大な税金が使われている。」

「お金がなくて戦争するなら、もっと考えることがあるはずだ」

上記は、報道などで伝えられている、植松死刑囚が友人たちに語った文言だそうだ。上記を改めて読んでみて私の頭には幾つかの疑問が浮かぶ。あの植松聖という男は、日本の財政の仕組み(国債引受けを外国に頼っていないので、ギリシャのような債務超過に陥らないこと)を知らなかったのだろうか? 財政破綻が起きる可能性が極めて小さいことを知らなかったのだろうか?国民の社会・経済への貢献について植松はどういう定義をしていたのだろう? 国の財政が国民の納める税金だけで賄われていると本当に思っていたのだろうか? そして、国の金が枯渇すればすぐさま戦争が勃発すると本気で考えていたのだろうか? もしこれらの事柄を正しく理解していなかったとしたら、彼は全く無駄に義憤にかられ、意味なく国の将来を憂い、空っぽで滑稽なほど的外れな正義感を振りかざしてあの犯行に及んだということになる。と言うことは、あの事件そのものの悲しさ、悲惨さも、これまで思われてきたよりも遥かに大きなものとなろう。

1990年代初頭のバブル経済崩壊後、日本経済の成長はほぼ止まってしまった。国の財政はどんどん悪化して国債発行による借金が膨れ上がっていくように見えた。すると、初期ネット世代の当時の若い人たちを中心に、国力を弱らせ国民を苦しめるこの流れについて、障害者や高齢者、その他の社会的弱者、いわゆる社会的コストが多くかかる人々に起因するとの声が大きくなっていった。また、それと同時に、1980年代後半から欧米で影響力を増してきたネオ・リベラリズム(新自由主義)を起源とする自己責任論が日本でも急速に蔓延し始め、周囲に迷惑をかけながら生きることは許されざる大罪だとする主張が見る見るうちに広がっていった。このような一部ネット民の考え方や主張は、10年、20年経った後の若者世代にも、そして、あのやまゆり園事件を起こした植松聖死刑囚にも思想的な、および思考形成上の強い影響を及ぼしたようだ。これらの、前の世代から受け継がれた危機感と恐怖心、焦燥感などの想いの全てを自分の中で凝縮させ、さらに、そんな世界観から出現した独特な正義感に背中を強く押された植松死刑囚が最終的に行き着いた「自分が今なすべきこと」、それが重度障害者の大量殺戮だったのだ。

「日本は今、財政破綻一歩手前で、障害者を生かしておく余裕などないはずだ」。これは、植松死刑囚が報道機関のインタビューに応えて述べた発言で、実は事実誤認も甚だしいのだが、筋が通っているように見えてその実、感情的で短絡的であり、また飛躍し過ぎていて奇妙な言葉だと感じるのは私だけではないだろう。しかしながらその一方で、このような考え方自体は、私たちの日常に広く、そして深く浸透してきていることは、認めざるを得ない全くの事実だろう。そのことを、未だ収束する兆しさえ見えてこないコロナ禍になってから最近とみに強く感じる。日本社会の高齢化が盛んに論じられるようになって久しいが、そのような議論は常に医療費の大幅な増大、財政の逼迫、介護労働の過酷さ、介護人材の不足などの問題とワンセットにされ、障害者・高齢者、その他の社会的弱者が社会のお荷物だというイメージを色濃く滲ませた形で語られている。少子高齢化で社会保障財源がどんどん先細りしていっているのだから、ある程度の”命の選別”は仕方ないこと、という空気は、気づけばいつの間にかこの国を覆い尽くしている。10~15年前だったら口にするのもはばかられた考えだっただろう。しかし今では、単純で残酷、現実的な「本音」が善とされ、奥深い意味があり、それ故に理解が難しい「倫理、人道」などは唯の「建前、偽善」として打ち捨てられてしまうのだ。その際何よりも、そういう思考をする人たちが、自分たちの社会観や判断を疑ってみて検証してみようという気がないのが最大の問題なのだ。そして、「どの命も大切だ」というような正論を吐こうものなら、「現実を何も分かっていない愚か者」と嘲笑されるシーンがそこら中に見られるようになってしまった。

私はこの4年の間、ESC統合課程の障害当事者講話の中で、受講生の皆さんに一貫してずっと言い続けてきたことが3つある。

1つ目は、自分より弱い立場にある人たちを排除したいという卑劣で野蛮な感情は、どんどん大きくなってくる生きづらさに追い詰められた時に人の心の表層に出てきてしまう嫉妬心、劣等感、社会の底辺に落とし込まれてしまうのではないかという恐怖心が最大の原因である、ということだ。確かに誰しも、障害の有無や年齢の老若に関係なく、生産性の高低でのみ人間の価値を測ることや適者生存、人為的淘汰を是とする優生思想に知らず知らずのうちに影響されてしまっている。そこに、自分がいくら働いても生活はちっとも楽にならず、人は自己憐憫に陥ってしまうのだ。その一方で、自分よりもずっと生きづらさを感じているはずの障害者や社会的弱者と称する人たちは、国や自治体の支援を受けて、「碌に働きもせずノウノウと生きている」かのように見えてしまうようだ。そしてついには「不公平じゃないかぁっ! いつまでも俺よりも不幸で可哀相でい続けろ!」という心の叫びが表に出てしまうのだろう。

2つ目は、あの植松聖と同様に誰しもが加害者になり得るのだが、その一方で、犠牲者になる確率の方が数百倍、数千倍も高いということだ。それは、誰もがやがては高齢者になり、またその際、健康な身体のまま年を取っていく訳ではなく、必ずや身体障害者か知的障害者、またはその両方になっていき、やがては「社会のお荷物」に分別されてしまうからだ。

そして3つ目は、社会がそんな人間性を欠いた、残忍な場所になっていくのを防ぐには、私たち一人一人が、その兆候である事象の一つ一つに最大限に鋭敏になり問題意識を強く持つ必要がある、ということだ。つまり、感性を研ぎ澄まし、思慮をもっと深めるべきだ、ということ。逆に言えば、それ以外に有効な方法はないのだ。

この20年間を振り返れば、2000年~2010年頃に、バブル期以前には誰も気にもしていなかった、社会の底辺で喘ぐ生活保護受給者がバッシングの対象となった。「税金で成り立っている手当を貰って遊び暮らしている」、「頼れる血縁者がいるにもかかわらず敢えて公金を食い荒らしている」というのが主な理由だった。次にバッシングを受け始めたのが、健康保険制度から多額の支給を必要とする人工透析患者だった。わざわざ大昔の日本で信じられていた「糖尿病=贅沢病」という怪しい定説を引っ張り出してきて、それを基に「贅沢三昧した挙句糖尿病になって、それを悪化させて要人工透析状態になったのは自己責任(自業自得)だ」という理屈らしい。そして、この数年広がっているのは障害者・高齢者・シングル家庭などに対するヘイトだ。社会的弱者が受ける公的な支援を「特権」だと決めつけて言いがかりのネタにするのだ。また、おそらくは、そんな負のマインドの延長線上に、電車にベビーカーの子供と乗る人を執拗に非難する「子連れヘイト」があり、学校や職場でのハラスメントやイジメがあり、妊婦は混んでいる時間帯に公共交通機関を使うな、などと恫喝する輩が現れたり、意のままに操れない幼子を虐待死させる親が出てきたりするのだろう。

これらの状況について私は、目に見える弱者としての特徴を持たないか、あるいはそれに気付けない自称マジョリティが抱える焦燥感、恐怖心、嫉妬心のような負の感情が爆発寸前になっているのを強く感じるのだ。

それら負の感情が生まれ大きくなるのは何故なのか。その大きな原因は、日本社会の低迷と国民生活における貧困の深化、格差の拡大・不安定化、そしてそこにカルト宗教のように蔓延した自己責任論にあるのではないだろうか。ここ20年以上の間、自己責任論によってマインドコントロールにかかった人たちは、死に物狂いで生きてきた。人生で成功するのも自己責任だが、その反対に病気になっても、就職できなくても、貧乏になっても、会社を首になっても、何もかも失って路頭に迷おうとも、野垂れ死にしようとも、理由が何であれ全て自己責任とされてしまうのだ。そんな行き過ぎた競争社会の中で、脱落者と見做され、役立たずの烙印を押されない為にも決して弱音を吐くわけにはいかないし、周囲に向かっては常に生産性の高い自分をアピールし続けなければならない。そして、一瞬たりとも油断ができない強烈な強迫観念にさいなまれ続けるのだ。ところがそんな時、ふと下を見ると、自分よりももっと苦しい立場にいるはずの、障害や高齢を理由にして国や自治体に守られ楽をして生きているかのように見える奴らの存在に目が行ってしまう。「役立たずのくせに、許せない!」という気持ちが湧き起り、それが次第にふつふつと強い怒りに変わり、密かな殺意へと高まっていく。

厳しい自然界における動物と同様に、過酷な人間社会での人は生存本能が強くなる。この社会的生存本能こそが優生思想の源なのだ。こうした生存本能は他者への攻撃性となって現われる場合が多く、しかも、その攻撃性が自分より優位な立場にいる他者に向けられるのは稀で、大概の場合、自分より弱い者を排除する方向に用いられるからだ。それが今の日本の社会状況なのだ。そして、まさにそんなこの国で、2016年の夏に起きたのが、相模原津久井やまゆり園事件だ。


【筆者プロフィール】
古本 聡(こもとさとし)
1957年生まれ 脳性麻痺による身体障害1種1級
旧ソ連で約10年間生活。内5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、介助者の勧誘・コーディネートを行う。
大学卒業後通訳・翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年からユースタイルカレッジの重度訪問介護従業者養成研修統合課程での実習/講話を主に担当。
現在はユースタイルラボラトリー社員。
妻、娘の三人家族。