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やまゆり園事件から4年に寄せて Part 2   古本聡

やまゆり園事件から4年に寄せて
Part 2

古本聡



「どんな命も大切だ。命の選別など絶対あってはならない」。そう言われる一方で、今般のコロナ禍の中で多くの人々の尊厳、人権、そして命が蔑ろにされている現状がある。感染者、その家族に対する選択的医療行為、差別や嫌がらせ、どう考えても度が過ぎた「自粛警察」の出現など・・・。

それだけではない。

4月はじめ、アメリカのアラバマ州、ワシントン州、アリゾナ州が新型コロナウイルス感染の猛烈な拡大を受け、医師会に出したガイドラインが、ひどい差別だと批判の対象になった。ワシントンとアラバマ州の災害対策計画では、「認知障がいのある人は、救命治療の優先順位が低い」と記していた。最近までアラバマ州の公衆衛生局のウェブサイトに掲載されていた州の方針によると、重度の知的障害、進行性認知症を持つ人たちは、人工呼吸器支給の対象から外される可能性があるとも書かれていた。その後、複数の障碍者権利擁護団体からの講義を受けて、アラバマ州ではこのガイドラインを撤回されたものの、他では州によっては「重度障害者が所有する人工呼吸器もトリアージの際には取り上げる」と解釈できるガイドラインが有効のまま残されている、という報道もある。(一部引用元:ヤフー・ニュース)

5月中旬には、医療現場が逼迫する日本でもある出来事が報じられた。大阪大学人間科学研究科未来共創センター招聘教授で現役医師(循環器科専門医)の石蔵文信氏(64)が高齢者向けに作成した「集中治療を譲る意志カード(譲〈ゆずる〉カード)」が物議を醸している。同カード表面には次のように記されている。「新型コロナウイルス感染症で人工呼吸器や人工肺などの高度治療を受けている時に機器が不足した場合には、私は若い人に高度医療を譲ります」。石蔵医師のお説明では、「イタリアやスペインなどでは、人工呼吸器など高度の医療機器が不足し、医療従事者が誰を優先して救うべきか、命の選択を迫られました。日本でそうした医療崩壊が起こった時、医師に選択を迫り、人工呼吸器を外す決断をさせるのは酷だと考えました」ということだ(カードの記述および医師の発言は。HuffpostNewsから転記)。 このカードの元々の目的、医師の説明がどうであれ、これは、限られた医療資源をどのように使って、どの命を救うか、というトリアージが今、私たちにこれまでないほどリアルさをもって、迫ってきていることを意味しているのではないだろうか。

また、つい最近の7月3日、れいわ新撰組に所属する大西つねき氏は自身のYouTube動画チャンネルで、「『正しさ依存症』とそれを生み出す教育について」という動画配信を実施した。 その中で同氏は、「高齢者を長生きさせるのかっていうのは、我々真剣に考える必要があると思いますよ」と語った。その理由を「介護の分野でも医療の分野でも、これだけ人口の比率がおかしくなってる状況の中で、特に上の方の世代があまりに多くなってる状況で、高齢者を……死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう、そういう政策を取ってると、これ多くのお金の話じゃなくて、もちろん医療費とか介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これは若者たちの時間の使い方の問題になってきます」と述べた。さらに「こういう話、たぶん政治家怖くてできないと思いますよ。命の選別するのかとか言われるでしょ。生命選別しないと駄目だと思いますよ、はっきり言いますけど」と、生命の選別を肯定。そして「何でかっていうと、その選択が政治なんですよ。選択しないで、みんなにいいこと言っていても、たぶんそれ現実問題としてたぶん無理なんですよ」と、また、そういう決断をすること、それこそが「政治」であると言い放った。結論として、「だからそういったことも含めて、順番として、その選択するんであれば、もちろん、高齢の方から逝ってもらうしかないです」と、高齢者に先に死んでもらうしかないと明言したのである。(大西氏の発現部分はBuzzFeed Newsより転記)

大西氏の言うところの「逝ってもらう」とは、ある年齢に達したら、寿命がまだ来ていなくても生きている人を「殺す」ということに他ならず、高齢者の組織的大量殺戮を堂々と宣言したようなものだ。そして、こんなことを「政治」の仕事だと公言したのだ。

私は、この高齢者を安楽死させる時代が到来する可能性があることについて、統合課程での講話の中で毎回話してきたが、一部の受講生には、ともすればSF映画のような、突拍子もないこととして受け取られていたかもしれない。しかし、このコロナ過というタイミングであれほど堂々とそれを語る人が出てくると、私の推測がいよいよ現実味を帯びてきた、と考えざるを得ない。

優生思想と自己責任論に違和感を持たない人たちは、自らもそれらの作動メカニズムに取り込まれ自己の命の尊厳、自分の生の価値、人間に与えられるべき基本的な権利を放棄するか、どこかに置き忘れてきてしまっている。考えることすら止めてしまったようにも見える。自分たちが最も大事なものを捨て去って、持っていないのだから、ましてや他者、特に自分よりも弱いと思っている者たちの命の尊厳、秦の生の価値、人権など、気にするはずもないだろう。人間性を失っているのだ。

本稿のPart 1で私は、自己責任論、ひいては優生思想はカルト宗教のようなもので人々をマインドコントロールすると書いた。「生産性が高くないと、そして役に立たないと生きる価値がない」という価値観の呪縛から解放されるには、働くのはあくまで自分のため、そして生産性を向上させるのは自己実現と自分が満足するためであると、頭を切り替える必要がある。自分の階層より上位の人たちから「お前は役に立つ」と認めてもらい仲間に入れて貰うためではない、とことに気が付かなければならないのだ。

植松聖死刑囚が造った「心失者」という言葉があるそうだが、私に言わせてみれば、先記のような人たちこそがそう呼ばれるべきだ、と思う。そんな人たちがたとえ大勢を占めているとしても、そして、コロナ禍にあって人の心が委縮しがちな時代だからこそ、私たちは「命の選別」は絶対にしてはいけないと、命は何よりも大切で掛け替えがないものだと、これまでよりもさらに声を大にして言わなければならないと思う。

植松聖死刑囚(以降、「植松」と呼称する)について述べておこう。

やまゆり園に就職するまで、植松は障害者、特に重度障害者を取り巻く現状について何も知らなかった、と報道されている。彼は、何の予備知識もないまま、最重度の成人障害者を収容する同園で働き始めて、強烈なショックを受けたのだろう、ということは想像に難くない。その当時、園内の状況についての感想を植松は公判で、 「すごい世界があるな、と思いました」と述べている。

私は、さまざまなインタビュー記事、接見をした人たちの話、公判に関する記事などを読む限り、植松は元々、やや自己顕示欲が強めでお調子者の気があるがごくごく普通の今どきの青年だったのでは、という印象を抱いた。それでは何故、植松はあんなにも凄惨な事件を引き起こすことになったのか。ここからは私の推論に過ぎないのだが・・・。

植松の人物像について考えていた時、私はふとある知り合いのことを思い出した。その人は、自分のことは何一つできない重度全身性障害者の介護を数年間していたのだが、ある日、私の目の前でまるで独り言のようにボソッとこう言ったのだ。「ずっと介護してきたし、これからも続けるつもりだけど、身動き一つできず、声も出せず、食事もできない状態で『生きてる喜び』ってあるのかな? 自分があの状態になったら、殺してくれ~、ってなりそうだよ」と。「あんたが勝手に判断しちゃいかんよ」と私も呟いた。

やまゆり園で働いていた植松もおそらく、最初こそやりがいを見出したものの、同園の重度障害者がおかれた劣悪で過酷な環境、施設職員の乱暴で非人間的な接し方、収容者家族親戚の冷たい態度や憔悴・疲弊しきった様子を目の当たりにするにつれ、あの私の知り合いと同じような葛藤にとらわれたのではないだろうか。施設という小さな世界で植松は、健全者と障害者との、つまりは同じはずの人間同士の「分断」を見てしまったのだ。そして、「この人は幸せなのか」、「障害とは何か」、「生きる意味はあるのか」、「いっそのこと死なせてあげた方がいいのでは」(これら文言は報道記事から引用)というような、それまで考えたこともなかった疑問にぶつかって戸惑ったのだろう。実際に彼は、そういう状況について同僚に、今どきの若者らしく「やばいですよね」という軽い言葉で表現している。

しかし、非常に残念なことに、重度障害者介護に携われば必ず経験するであろうこれら疑問について、植松の周囲には真摯に答えてくれる人はいなかった。「障害者を殺す」と言う植松に友人たちは「捕まるよ」と、まるで4、5歳の幼児のような答えしかせず、植松が口にした差別的な発言に対し、ある先輩は「思っても口に出すな」と言ったという。それらの言葉は、植松には何のヒントにもならず、頓珍漢で空虚に聞こえたに違いない。そして彼は結局、ネットで書かれているような、優生思想に満ち満ちた、また自分の目の前で起こっていることにバッチリ合致し、しかも解かりやすい説明に飛びつき納得してしまったのだろう。それが「障害者に生きる意味なんかない」というものだ。

私は思うのだが、障害者が、自分の生きる意味を説明する義務はない、と。そもそも健全者にもそんな義務はないのだから。

この社会で、生きる意味や価値を問われるのは常に弱者の方である。自分は強いと思い込んでいる「自称強者」は、自分もまた上位強者から同じ問いを突き付けられていることに無自覚なまま、弱いものに対し実に惨いことを問うのだ。その時自称強者は、「では、お前には生きる意味などあるのか?」と問われることは決して想定していない。想像力の欠如だ。そう問われた時、どれほどの痛みを感じるか、なぜ想像もせずに他人の命を評価しようとするのか。それは愚か故、としか説明のしようがない。

そして植松は、「役に立たなければ自分も生きる意味がなくなる」の一心で他人の生の値踏みをし、多くの命を奪った。それについて改めて深い、そして強い憤りを感じる。植松はおそらく、命の価値や障害者の生の意味についてある程度は考えたのだろう。しかし、「ある程度」ではダメなのだ。最後まで考え抜く気力がなかった植松は、途中で面倒臭くなり,論理を端折って障害者殺しを選んだのだ。その際、植松は、自分に同調・共感してくれる極一部の人たち、優生思想の積極的信奉者に「役に立つ人間」として自らの生きる価値を評価してもらうことを選んだと言えるだろう。植松が自分の主張に最初から最期まで固執したのはそのためだろう。しかして、彼の目論見は当たった。今、「植松 神」、「植松 ヒーロー」というキーワードで、彼を持ち上げる内容の記事がワンサカ出てくるようになった。しかし、このことを逆面から透かしてよく見てみると、「自分の掲げた大義が間違っている可能性があること考慮する恐怖」に震えていた、とは思えないだろうか。

そんな植松に、司法は「お前こそいらない」と極刑が下した。しかしその際、裁判は、深層部分を何も解明することなく終わってしまった。「量刑だけを決める裁判って、いったいなんなんだろう」、と強烈な違和感を抱いているのは私だけではないだろう。もっぱら私は、積極的な死刑廃止論者ではないのだが・・・。

【筆者プロフィール】
古本 聡(こもとさとし)
1957年生まれ 脳性麻痺による身体障害1種1級
旧ソ連で約10年間生活。内5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、介助者の勧誘・コーディネートを行う。
大学卒業後通訳・翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年からユースタイルカレッジの重度訪問介護従業者養成研修統合課程での実習/講話を主に担当。
現在はユースタイルラボラトリー社員。
妻、娘の三人家族。