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ALS患者さんに対する嘱託殺人を受けて~医者の役割とは何か~ 安積遊歩

ALS患者さんに対する嘱託殺人を受けて
~医者の役割とは何か~

安積遊歩



医者の役割とは何か。
今回の京都の事件で最もつらかったのは、医者が殺人者であったという点だ。生まれた時から医者がベッドのそばにくると、恐怖と怒りが湧き上がり、13歳の時にはもう二度と医者にかかるまいという決断をした。そのために自分の身体を良く看ることを学んだ。

しかし娘を産むとなった時、医師たちの支援を受けなければこの世に娘は産めないと覚悟して、最高の女性医師と出会った。あまりにも素晴らしい彼女は、今医師としての本来の使命をもって、女性のための女性によるクリニックを八王子に立ち上げた。婦人科、産婦人科系で悩んでいる方はぜひ彼女に出会って欲しい。彼女と出会えたことで、私は娘を喜びのなかで迎え、育てることができた。人との出会いこそが人生を大きく変える契機となる。どんな医師に出会うかで、私のようにさらなる命に出会うことができることもあれば、今回の事件のように命を踏みにじられることもある。

ところで、この優生思想社会がどんなに間違った認識の上にあるかという事を、率直に正直に言おうと思う。私たちは、世界的な運動の中で障害を医学モデルではなく、社会モデルと定義した。その考え方が広まってきたのは喜ばしい。社会モデルというのは、障害を持つ人のさまざまな生き難さを社会がなんとかしていけば、私たちも同じようにこの社会に対等に生きられるのだという考え方だ。だから、歩けないなら車椅子を、車椅子で移動するためにはエレベーターを、呼吸が難しいなら人工呼吸器を、言葉を発するのが難しいなら手話を、と様々な側面に私たちが人間として生きられる権利を実現してきた。

しかし、どんなにその権利を確立し続けても、身体の痛みや辛さは容易に減るものではない。障害を持つ人との共生というのは、その人の身体の痛みや辛さを聞き続けるということでもある。しかし、優生思想社会にはそれがあまりにもない。できないどころか苦しみや痛み、辛さを言えば、「だから障害者は可哀想で、惨めで、生まれてこない方がいい」とか、あるいは「人工呼吸器をつけてまで生き延びる必要はない」という社会の眼差しが来る。

障害を持つ人が、その人自身と生きるためにはその身体との共生から始まる。まず自分の身体との折り合いをつけ、その痛みや苦しみのなか、どのように生きていくかに始まる。

私は記憶にもない幼い頃、骨折や手術のたびに「死ぬ!死ぬ!」と呻き、叫び続けたそうだ。2歳年下の妹から聞いた話である。骨折はあまりに痛かった。その上、ギプスの拘束はあまりに辛かった。だから、「身体が死んでしまう!」と叫び続け、それを表現すると「死ぬ!死ぬ!」という言葉になったのだろう。

人工呼吸器をつけることもどんなに辛いことかと思う。自分の呼吸と呼吸器のそれを合わせていくプロセスや、喉に管が入れられる辛さを考えると、それでも生きようとする人たちの決断のすごさが良くわかると思う。しかし、決断をしたからといって、呼吸が楽になってもさらなる痛みもあるだろう。

だから、障害を持つ人との社会の側の共生は、まずその身体の辛さ、痛みを聞くということから始まるのだ。

この事件があまりに辛くて、黒澤明の『赤ひげ』をもう一度観た。『赤ひげ』は山本周五郎原作の江戸時代、町奉行所属の医者の話。貧しい人々を中心に、様々な人々を、医学を使って助ける赤ひげをたくわえた医師。その活躍は、凄まじい身分制度を背景に、困難と苦労の連続ではあるが、人々の辛い思いを聞き続けるということが医師の第一の仕事であるということがよく描かれている。京都で殺人者となった医師とは真逆のありようである。

私にとって医者は、大量の医学の知識や、その知識の上にたった技術で人を助ける人ではない。病気や障害につきものの身体に起こる痛みや苦悩を取り払うために、ただただ患者の命への信頼をもって、そばにいてくれる人であってほしい。

優生思想社会は、身体の痛みはもちろん、心の痛みも表現する事を拒む。しかし、生きるということは、ある種それらの連続でもある。だから、真の共生社会は、まず人の苦しみや痛みを取り除くのではなく、聞き合うという立場に立つことからうまれる。個々人の体の痛みも苦しみも、生の中の大切な一断面であって、それを無くすことが良いことだという社会のありようが凄まじい優生思想なのである。

そうあることで、安楽死も尊厳死も意味をなさなくなる。それどころか優生思想の象徴として認識すべき事案となる。苦しい、辛い、痛いと言える社会、聞きあえる人間社会、それを核としたケアのあり方を構築しよう。私の人間社会に対する諦めのなさは、幼い私に信頼をもって聞き続けてくれた母親と妹の存在からうまれているのだから。