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「障害=大変、辛い」という早合点

「障害=大変、辛い」という早合点

古本聡



アテトーゼ型脳性麻痺を持って生まれてきて、私は今年で60を迎えます。生まれて間もなく母に、「この子は5歳の誕生日を迎えることはないよ。悪いことは言わないから諦めなさい」と宣告したドクターの、確固たる自信を既に12回分も打ち砕いたことになりますね。それはさておき、還暦を迎えようとする今、ほぼ全身が思い通りに動いてくれない私は障がい者として超ベテランの域に差し掛かったと言えるでしょう。
自分の障害について何の気なく話していると、「じゃあ、動くことも大変でしょう、生活するのにもさぞかしお辛いでしょう」などという反応を頂くことがありますが、私はそんなとき、「生まれながらにこの身体なんで、今さら苦しいとか辛いとかは思わないですね」と答えてしまいます。すると、相手の方はキョトンとされます。
「身体が不自由なら辛くて大変」というのは、私からしてみれば一つの思い込み、勘違いであって、ひとつの偏見でもあるのです。思い込みというのは、本人と他者の間にはズレがないと信じ切っていて、その上で自分の方が正しいと思っているから、結構厄介なものだと思うのです。他方で、もちろんのこと、障害を持っていることを大変だと感じている障害当事者もいることは重々承知していますが・・・。
車いすユーザーである私は、例えば、歩くことは不可能なので、「移動する」ことになるのですが、私と言葉を交わす人の頭の中で、「歩く」→「移動する」という、普通はしないであろう言葉の変換がなされているかもしれない、と考えると、可笑しくなってクスッと笑ってしまいそうになるのです。また、「大変ですね」などと労ってもらったりすると、「え、何がそんなに大変?」と思ったりもします。
まぁ、私個人としては、その程度にしか考えていない、というか、正確に言えば、年齢とともにその程度にしか思わなくなった、ということなのです。
数年前、まだ小学生の娘の関係で知り合い、親しくなった、いわゆるママ友ご夫婦に「足が思うように使えないことで困ることは何?」と尋ねられ、「色んな体位が試せないセックスと、あとは、身体の都合で着こなしが難しいファッションですかね」と、初めて毒を吐いたときのこと。その方たちの頭に「?」マークが灯ったのを感じました。意味が捉えられない時の「え?」というより、困惑気味の「は?」のような「?」マークでした。しばらくの沈黙の後、ドット笑いが沸き起こったのですが、その時私は、人前で白昼堂々「セックス」という言葉を発した非常識さはさておき、やっと私という人が理解されたんだな、と思い、また安心感にも似た感覚を覚えたのでした。
60年も障がい者生活を送っていれば、「今まで大変だったでしょう?」、「どうやって障害を克服できたんですか?」、「感動的なストーリーがいっぱいありそうですね?」、というような質問を受けたことは一度や二度ではありません。そんな時、私は、根っから人が悪いのか、「今、私が大変だ、辛いなと感じているのは、“障害は乗り越えるもの、感動エピソードをもっているはず”という前提で話しかけてくるあなたと、会話をしなければいけないことなんだけど・・・」、と心の中でつぶやいてしまうのです。

私にとって障害は乗り越えるものではなく、気づいたらそこにあったものであり、受け容れざるを得なかったものです。自分で作り出したわけでもありません。自分で作り出せるものだったら、感動的なストーリーを数十個仕込んでおいて、そのネタをテレビ局などに売り込んで、もっと楽にお金をもうけられたかもしれませんね。でも、残念ながら、私にはそんなおいしいネタはないのです。
 もちろん、障害は乗り越えるものと考えている人もいると思うし、乗り越えた人もいるでしょう。考え方や、障害というものの解釈が違うだけなのかもしれません。捉え方ひとつに人それぞれの価値観が表れるのでしょう。
 その一方で、何故かは分かりませんが、近ごろ偽善や押し付けにはめっぽう敏感になってきました。 「愛は地球を救う」などのキャッチフレーズに込められた「障がい者理解を啓発」するようなニュアンスがとても嫌いです。「障がい者を理解してあげましょう」、というようなメッセージを感じ取って、その“理解してあげる対象”に私も含まれるのかと思うと、カチンと来ます。「理解してあげましょう」という言葉にある、社会から手を差し伸べられるべき存在かのような対象の中に含まれると思うと、言葉は悪いですが、反吐が出ます。たぶん、口に出さないだけで、同じ思いを持っている障がい者は、結構な数いるような気がします。
障がい者という単語で全ての種類の“障害持ち”を一括りにするのは簡単ですが、全く同じ障害の人はまず見つからないでしょう。例えば、アテトーゼ型(不随意運動を伴う)脳性麻痺者が100人いれば、全員症状は違います。障害を負った原因や生活、悩みまで同じという人も非常に稀です。自分の状況や事情を理解してほしいと願う人もいれば、その点においては違う考えの人もいます。価値観もバラバラ。それらを一括りにし「理解してあげましょう」などといったメッセージは、「皆んな違ってていいんだ、それが素晴らしいんだ」という風潮が一般的に好まれている割には、画一的過ぎて気味悪いな、と私は感じてしまうのです。

また「障がい者を理解してあげましょう」というメッセージは、身体障害当事者である私自身の中の障がい者観、障がい者理解についても関係してきます。つまり、例えば、統合失調症、ダウン症などの知的障害、アスペルガー、エイズのような、私にはない障害に対しての理解についての見方や捉え方に関係してくるのです。障がい者自身は自分の障害について熟知しているとしても、他の種類の障害についてなんかあまり良く分からないし、深く知らないし、基本的には興味が薄い、というのが本音です。その点は、何の障害も持っていない大多数の人たちとほぼ同じレベルなのです。ESL受講生の皆さんにお話をする機会や、このような原稿を書くという機会がなければ、そんなことを考えることに時間を割くなんてもったいない、と思っていたかもしれません。

「障がい者を理解してあげましょう」という言葉は、私にとって気持ち悪い響きを持つもので、好きではありません。そもそも、障害があろうとなかろうと、他者を理解しましょう、理解してますよ、なんて言われても、どこか上から目線で、おこがましく思えるのは私だけでしょうか。
障がい者だけが格別大きな辛さを抱えているわけでもなければ、生き難いわけでもありません。また障がい者だけが理解されたい、と思うのもおこがましい話でしょう。例えば、人種差別を受けている人々、難病の方、LGBTのようなセクシャルマイノリティの方を、障がい者は微塵も偏見を持つことなく深く理解して 受け容れることができるのだろうか、障がい者と並んで社会的弱者のテゴリーに仕分けされる人たちへの理解もまた進められるのだろうか、と考える今日この頃なのです。

だからこそ思うのです。「障がい者を理解してあげましょう」ではなく、「自分の身の周りに困っている人がいたら声をかけてみよう、手を貸してみよう」くらいでいいんじゃないかと。その方が、簡単な言葉で伝わりやすく、理解もしやすい、気も楽でしょう。言う側も言われる側も。
障がい者の中にも、困っている人もいれば、困っていない人もいます。当然の話です。全員が同じ状況にある訳ではありません。にも関わらず「障がい者」という言葉を使って呼び掛けるから、却ってややこしくなって声がかけにくい、手が出にくい、引いては考えることさえ面倒にさせてしまうのではないでしょうか。そしてメッセージの受け取り手は何をすればいいのかが分からなくなるのです。これと同じことが、障がい者にだけではなく、難病患者やLGBTなど、他のカテゴリーについても言えることだと思うのです。
 社会に理解を求めて啓発を実践することは大いに必要です。知らされないがための無知は、場合によっては暴力になり、人を肉体的・精神的に傷つける凶器になりえるからです。それくらいのエネルギーを持っています。ただ、少しでも知らされていれば、そのようなエネルギーは、困っている人への何気ない配慮やサポートにつなげられると思うのです。そして、その方がずっといいですよね。
また、生き辛さを抱える人がいて、その人が自分のことで精一杯で、他者を思いばかることができないことで生じる結果と、知らされなかった故に配慮しないことによる結果は、配慮の受け手からすれば、配慮が無いという結果に変わりはありませんが、意味がだいぶ違ってきます。
 困っているときはお互い様で、持ちつ持たれつ、譲り合いがある社会。これは理解を啓発するということと最終的な目標は同じではないのでしょうか。そうやって徐々に、社会、弱者カテゴリー間の理解、連携も深まっていくのでは、と思う次第です。その際、お互いに何らかの悩みや辛さを持っているのだ、という前提に立つことが大切なのではないでしょうか。
(2017年3月の記事より、再掲載)