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時には治療共同体のように

時には治療共同体のように

高浜敏之



障害を持った方々と過ごすなかで私が学んだことは、あるがままの自分の存在を受容するという生き方のスタイルである。

私たちには他者と自分を評価する価値観がある。知力、体力、容姿、収入、社会的地位などなど、多種多様な角度から、他者を評価し、自己を評価する。その価値観があるから私たちは成長し、社会は発展したといってもいい。私たちの成長神話と向上意欲の基盤を作っているのがこの価値観だ。

しかし、その価値観に基づく評価の連続が度が過ぎ閾値を超えると、それは過剰なストレスを自己と他者に与える。しかもその価値観の深みにはまりすぎると、存在の属性の一つに過ぎない能力が存在自体をその重要性において上回るという倒錯が起きる。

できないくらいなら、もたないくらいなら、死んだほうがまし、という思念が浮上する。

優生思想の萌芽である。

若かりし日の自分自身もまさにその思念の完全なる俘虜となっていた。

そして、それとは異なる生き方のスタイル、できなくたっていいじゃん、もってなくたっていいじゃん、能力や所有とハッピーであることは、ダイレクトな因果関係にあるわけではない、あるがままの自分自身を受け入れることがハッピーへの本質的な道だということを、障害を持った人たちと共に過ごすなかで、別に説かれたわけでもないのに、自然にそう思うようになった。あるがまま、は障害を持った人たちが想像を絶する差別や抑圧の嵐を生き延びるための、のっぴきならない生存哲学であるということが、私がおつきあいさせていただいた方々のその生きざまから伝わってきた。

もちろん成長すること、向上すること、評価されることは大切だけど、あるがままの自己受容がメインディッシュで、ほかはオードブルやデザートくらいの感じ、そんな風に思うようになったし、以来生きるのが実に楽になった。

というわけで、あるがまま、このワードは私の最も好きなワードである。

そしてこの、あるがまま、は有名な精神療法の最重要概念でもある。

森田療法は精神科医の森田正馬が創設した、不安障害や神経症に対する有名な精神療法である。その森田療法の核心的な概念が、あるがまま、である。森田正馬によれば、問題は不安や恐怖ではなく、不安や恐怖に過剰に注目する心的傾向、生きているなかで当然に生じる不安や恐怖などの異物を、あってはならないものとして一切消滅してしまおうという価値観であると。

森田正馬はその著書で次のように書いている。


ことさらに、そのままになろうとか、心頭を滅却しようとかすれば、それはすでにそのままでもなく、心頭滅却でもない。
当然とも、不当然とも、また思い捨てるとも、捨てぬとも、なんとも思わないからである。そのままである。あるがままである。
「あるがまま」とか、「なりきる」とかいうことを、なるほどと理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、既に「あるがまま」ではない。


森田療法は、違和感、異物感を、自然のものとして受け入れつつ、無理にとりのぞこうともせず、無理にとりのぞきたいという志向性も含めて、一切合切、あるがまま、に受け入れ、目的に向かって行動するという、きわめてポジティブかつ未来志向的な思想、精神療法であると同時に禅思想に基づく人間哲学でもある。

そして、あるがままの思想を実践する試みとしてもう一つ思い浮かぶのが、治療共同体、である。

治療共同体は1960年代からアメリカを中心に世界中に展開することになった、薬物依存症、精神疾患、ホームレス、受刑者などの回復プログラムを提供する参加型集団アプローチの共同体である。日本では薬物依存症の治療回復施設のダルクが広義の意味での治療共同体といっていいだろう。

ダルクの治療回復施設では、言いっぱなし聞きっぱなしのミーティング、がその治療回復のプログラムの中核をなす。ミーティングでは参加メンバーそれぞれ自分がドラックアディクションに囚われるようになった過程とライフストーリーを語り、その語りを聞いている間は参加メンバーは一切の発言、批判や助言、などが認められず、ただ聞く。もちろん人間なので、他者の語りを聞いている間に、焦燥や怒りや不安、が湧き上がることもあるが、それは自分自身の問題として、それこそ、あるがまま、に他者の物語と自分の感情を受け入れ、その流れを見守る。このきわめてシンプルなワークが、薬物依存症という極めて回復率の低い死に至る病の治療において最も有効だと考えられている。

ダルクでは日々のミーティングの最後にかならず次の詩を参加者全員で唱和する。


神様 お与えください
変えられないものを受けれ入れる落ち着きと
変えられるものを変えていく勇気を
そして
二つのものを見分ける賢さを

平安の祈り、という。


私にはこの治療回復施設において日々実践されている、ただ聞く、というワークこそが、あるがまま、を凝縮して表現しているように思われる。この、あるがままの受容とそれを可能とする共同体、こそがドラックアディクションの背景にある不安やストレスとそれを生み出す過剰競争の文化、自己と他者を比較して一喜一憂し、あげくの果てに自己と他者を苛烈に追い込み、その結果生み出される負の感情をドラックの眩暈のなかで忘却するしかないような社会の対局にあるのではないか。

障害者運動、森田療法、それから治療共同体がそれぞれ異なる取り組みの中で、異なる意味合いで提示する、あるがまま、は苛烈な競争社会や不寛容な排他的社会に対する異議申し立てとしての役割、まさしくカウンターカルチャーのような調和回復機能を社会全体の中で持てるのではないかと思う。

一方、あるがままというワードには現状容認や努力と成長の否定という響きも感じられる。

ある意味その通りだと思う。

ヘーゲル弁証法を持ち出すまでもなく、成長とは現状を否定し続けることによって新しいフェーズを発見し続けることにある。だとしたら現状をあるがままに容認する、あるがままの思想、は発展を阻害する。

月並みな結論だが、やはりバランスが大切なんだと思う。

ユースタイルラボラトリーでは公正かつ客観的な評価を重視し、常に評価制度をバージョンアップしている。アップデートされた評価基準に基づいて個人の能力と成果を測り、それに応じたキャリアパスと待遇を準備している。スタッフの方々は常に見られており、測られており、その緊張感の中でさらなる成長に向けて努力している。

あるがままの受容どころではない。

しかしこの個々人の努力の総和がチーム全体の成果につながり、その結果、全ての必要な人に必要なケアを、というビジョンの実現が近づくのだとしたら、やはりこの路線は正しい道であり、仲間たちと共に突き進んでいきたいと思う。重度訪問介護サービスが、重度障害をお持ちの方々があるがままの自分を受容する環境要因になりうるのだとしたら、そのために私たちがたゆみなく前進することになんの迷いもない。一方、この運動がもたらす心理的身体的負荷は時に苛烈であり、持続可能性が危ぶまれる時もある。

そんななか思うことがある。

時には治療共同体のようでありたい。

それぞれが自己と他者の言動に常に批判的眼差しを向けることなく、おのおのがあるがままを受け入れあえるような場所でありたいと思う。もちろん目的遂行共同体、特に営利法人においてはあり得ないことだ。現状容認に傾きすぎて発展することをやめた組織はいずれ自滅してしまう。でもそんな瞬間が時折訪れることは、チーム全体に息継ぎのタイミングを与え、失われたバランスを回復し、また再び走り続けるための水分を補給するのではないか。

森田正馬はノイローゼを不安や恐怖など異物への過剰反応と解釈したが、私たちは脱神経症的な場所、土屋訪問介護事業所という共同体が、異なることをむしろ歓待するような場所であること、すなわちダイバーシティを追い求めたい。

いろんな人たちがいる。障害を持った人、子育て真っ最中の人、ずっと引きこもりだった人、エリート街道まっしぐらだった人、ホームレスをしてた人、外国からやってきた人、ミュージシャンを目指してる人、LGBTの人、借金を抱えてる人、この共同体のメンツは多様である。だからこそやれることもある。

それぞれの存在と物語を、批判や助言なく、ただ聞く、ただ受容する。

あるがままに受け入れる。

見守りあう。

時には治療共同体のように。



高浜敏之
土屋訪問介護事業所GM。ユースタイルラボラトリー株式会社COO。全国障害者在宅生活支援事業者連絡会代表。慶応義塾大学文学部卒。哲学科美学美術史学専攻。20代は様々な職業遍歴を経て、30歳で重度訪問介護というサービスと出会い、福祉の仕事をスタート。それと同時に日本の障害者運動のパイオニアである新田勲さんが代表を務める全国公的介護保障要求者組合の事務局を担うことに。30代はホームレス支援、移住外国人労働者支援など社会的マイナリティーの権利回復運動にコミット。その後東京都中野区にあるグループホームでの介護職員を経て2012年5月にユースタイルラボラトリー株式会社の立ち上げに参加。デイサービス土屋中野坂上の管理者、生活相談員を経て土屋訪問介護事業所やユースタイルカレッジを立ち上げる。現在は土屋訪問介護事業所を統括しながら事業者ネットワークの発起人として活動する。趣味はボクシング、アート、文学、など。