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「こっちは金払ってんだ、なんでそんなこと位やってくれないんだ!」

「こっちは金払ってんだ、なんでそんなこと位やってくれないんだ!」

古本聡



サービス業に従事している人がかなりの確率で浴びされるこの言葉。しかも、大半のケースでは、客の方から無理難題な要求を突きつける時に使われる常套句のようです。

ちょうど1年前、私の講話を聴いてくださっていた受講生のお一人から次のようなご質問がありました。
『時々、非常に強い態度に出られる、障がい者の利用者さんに出会うことがあって、「こっちは金払ってんだ、なんでそんなこと位やってくれないんだ!」ときつく言われます。そんな態度に出られるのは、なぜなんでしょう?それと、そんな場合、どういう対処をすればいいんでしょう?』。

その時私は、正直言って、講話の持ち時間だけでは終わらない、すごく長い説明と答えになるんだけども、どうしたものかなぁ・・・、と考えあぐねた結果、
『相手の方とコミュニケーションをよくよく取ることでしょうね』
と、答えを端折ってしまったのです。
あの時の受講生の方には、大変申し訳ないことをしてしまった、と今でも思い返します。

私は翻訳を生業としてきました。翻訳も介護と同じサービス業です。この道、既に37年間になります。その中で上記のような暴言をクライアントから喰らったことが2、3回ありました。いずれも、クライアントの無茶振りや一時的な我儘が原因でしたので、長引くことはなく、また経済的損失も、幸運にも軽微か、もしくはありませんでした。もっぱら、純粋なビジネス上の、こうしたトラブルは、お金の流れる方向によって当事者間の上下関係がキッチリ決まっていますし、どちらかより賢い方の当事者が一歩引いて、相手方が頭を冷やす時間を設けるのが最善な解決方法なのです。こっちも仕事ならばあっちも仕事でものを言っているわけで、お互い様。不満を決裂状態までもっていかないことが、どちらに(自分に)とっても得だ、という暗黙の共通認識が機能しています。その点において、介護、特に1対1で行う訪問介護の世界とは大きく違っているかもしれませんね・・・。
では、介護・介助の現場でそのような暴言をぶつけられたら、どう理解すればいいのかについて、障害当事者としての視点も入れて、そのような主張の強い利用者さんが自立生活をしていること、またコミュニケーションの面では大きな障害がないことを前提として、私なりに述べてみます。

1年前、あの受講生の方の質問を聞いて真っ先に思ったのは、もしかすると件の利用者さんは何か大きな不安を抱えていて、それが故に介護・介助職に過度の期待と依存心を持っているのかもしれない、ということでした。あるいは、自立生活を始めて、自分のプライバシー空間に入り込んでくる全くの他人から介助を受けるようになって日が浅いのかもしれない、とも考えました。そう思い当たった理由は、ずっと前、一人暮らしを始めた重度身体障害者の知り合いが、当初は非常に横暴になってしまい、協力してくれたボランティアや介助者を苛めまくったのを思い出したからでした。

それまでずっと実家で家族に介護されていたその知り合いは、自立生活に強い憧れを持ち、大きな夢を抱いていたのですが、いざその生活が始まると、自分で選択・決定しなければならないことの多さに苛立ってしまい、周囲に当たり散らしたのです。そして、「協力するって言ったじゃないか、なんで指示したことができないんだ?」、となってしまったわけです。
つまり、その人は、一人暮らしの前に、自分の立ち位置を理解することや、周囲との人間関係を客観的に見ることに慣れていなかったのでしょう。また、指示の仕方にも不慣れ、他者との感性の違いにも気付けない、手伝ってくれる相手のお互いの辛さが見えていない、という問題点も見て取れました。あの人、今、どうしてるかな・・・。

生活に不慣れな障がい者は(そうでない人も)また、自立とは、障害の有無に関係なく、当事者が頼れる(利用・依存できる)人間関係やツール、生活方法、社会が提供してくれる利便性のオプション(公共交通機関、商業施設、サービス)をいかに多く知っていて、また上手く利用できるか、なのだ、という点を、えてして余り深く理解していないのではないか、とも思います。

さらには、自己主張の強い障がい者利用者さんの、人間としての個々の歴史にも目を向ける必要があると思います。何故その人は自己主張が強いのか、何故我儘になったのか、そして何故そのような性格の人になったのか、その背景には、外からは分からないその人なりの人生経験があるのです。その積み重ねによって、その人の現在の姿・性格が形成され、存在しているのです。

例えば、先述の私の知り合いのように家庭内でのみ暮らしてきた人、もしくは収容施設にずっと居た人は、はっきり言ってしまえば広い世間を知らずに来てしまいます。人間関係にも疎くなるでしょう。自立生活を始めた途端、様々な出来事や新しい経験の大海に放り込まれるわけですから、焦るでしょうし、恐怖も覚えるでしょう、情けなさも感じることでしょう。また、そういう感情の反動にも襲われることでしょう。そして、身の周りにいる特定の誰かに過度に期待し、依存し、固執してしまうのではないでしょうか。本当は、そのような期待や依存は、広い範囲の人付き合いの輪を作り、大勢の人たちに分散させるべきなのに、です。

人は時に、自己主張をすること、他者への攻撃をすること、他者を受け入れず、シャットアウトすることにより、それまで形成した自我を維持しようとします。そのように心の殻に閉じこもり、トゲを張らないと存在できない状態に陥ってしまうのです。でも、それは裏返してみてみると、自己主張の強さでも、攻撃する強さでも、交わりを断つ強さでもなく、その人が抱える痛み、弱さなのです。
要約すると、自己主張の強い利用者さんの心の中の「不安・焦り」が「特定の人への過度な期待・依存」に変化、続いて「強烈な自己主張・他者への攻撃的な態度」に裏返り、最終的には「こっちは金払ってんだ、なんでそんなこと位やってくれないんだ!」というセリフになってしまうのだ、と思います。

ちなみに、本音で言わせてもらえば、このセリフ、利用者さんの大いなる勘違いなんですけどね。現在、重度障害の場合、介護料は自分が払うのではなく、全額が税金で賄われているのですから。

私の知り合いの重度身体障碍者が自立生活に踏み切ったのは、介護制度などまたない時代でした。介護・介助者は皆、彼の考え方・生き方に共鳴し賛同した人たち、言わば「同志」、「戦友」でした。ですから、基本的には同じ方向を向いている、ということで、多少の我儘や横暴があっても、最終的には話し合って、怒鳴り合って決着がつきました。しかし、今は介護・介助は基本的に有償です。そのような「サービス提供者vs消費者」的な割り切った関係が、介護・介助の現場でどこまで維持できるか、それもまた介助する側・される側の両方にとって大きな課題になったのです。この点も付け加えておきます。

一方、仕事として介護・介助する側の心の状況はどうでしょう。介護・介助職としても、そんな固い殻に閉じこもり、トゲを尖らせた利用者に近づいて傷つくことを恐れるでしょう。仕事とはいえ介護・介助業務の出発点は相手への思いやりや敬意、助けたいという気持ちなのですから、いきなり理不尽な態度、言動に出られると間誤付いてしまい、委縮するでしょう。また浴びせられた暴言は、ずっと先まで心の傷として残ってしまいます。そういう恐怖や傷は、プロだからといって失くせる術がある訳ではありません。それも人間ならば誰しもが抱える弱さなのです。世の中の多くの職業では、この人間の弱さを克服することが要求されます。確かに、それも大事でしょう。しかし、こと介護・介助の業務、特に1対1の訪問介護業務にあっては、介護職・利用者の双方がお互いの弱さを認め合い、それを受け入れ、さらには科学的・論理的に昇華させることによって新たな視野、想い、発見、関係性などを模索していくことが重要だ、と私は考えています。

世の中にあるどんな職業も、「肉体労働」、「頭脳労働」、そして「感情労働」の3つの労働要素から成り立っていると言われています。3つめの感情労働は、自分の感情を抑制、時には逆に高揚させて管理していくことで付加価値を生み出す労働のことです。介護・介助業務において、他業種に比べ、この「感情労働」が大きな比重を占める一方、それが一般的にあまり深く認識されていない点に問題を感じます。
誰かに何か嬉しいことをしてもらった時、人はそれに対し少しだけ大げさに喜びを表現することがあります。それは、相手の好意への感謝をしっかりと表すことで、関係をより良好なものにしようとする感情的努力です。逆に、誰かに嫌なことをされたとき、私たちは通常、それに対しなるべく婉曲に、残念に思っている意思を伝えることがあります。これも、相手との関係を悪化させずに、トラブルを解決しようとする感情的努力です。これが感情労働の本質であり、本心を押し殺しつつ、自分の感情を管理するということは、相手との人間関係を良好に保つためのものです。

例えば、先記のような「主張の強い利用者」と接する際、介護・介助職が、その人の理不尽な言動によって大きな苦痛を受ける、という場面も少なからず生じます。もちろん、職員はそんなケースに対する知識をある程度は修得しているでしょうから、「なぜその人がそういう言動をとるのか」を把握し、適切な対応を行なうことになります。ここまでの流れは、主に「頭脳労働」に該当するわけです。が、その先は全て感情労働の領域なのです。
しかし、人間というのは、どんなに頭で理解し感情を管理しても、理不尽な言動そのものが与える刺激を消すことはできません。その結果として、意識するか、しないかに関わらずストレスという負荷が生じます。そのストレスが際限ないものであったり、個々のストレスの度合いが非常に強いものであったりすると、心の正常な状態を完全には回復できなくなる場面も出てきます。すると、「回復しきれない心の傷み」がどんどん蓄積していくことになります。それが一定以上蓄積されたとき、心が折れる、壊れるということが起こってしまうこともあり得ます。具体的には心の病気になる、という意味です。

私の妻は高齢者向けの訪問介護に従事していますが、妻の働き方を傍で見て、また話を聞くにつれ、介護業務ならではの特質をもっともっと掘り下げるべきだ、と思うのです。この点を考えたとき、介護業務における「感情労働」という面にもっとスポットを当てるべきでしょう。上記の「主張の強い利用者」の他にも、介護職が感情的刺激を受けるケースは多くあるようです。例えば、様々な悩み、ストレスを常に抱える、利用者の家族は、時として、介護職に対する言動、要求を強くしがちだ、と聞いています。こうしたケースで「利用者やその家族の理不尽さ」を責めたり、「利用者の教育」をいくら叫んでも、問題は解決しません。ここで重要なのは、家族に対する公的な救済策であり、さらには家族の不満の矛先が特定の介護職に向かわないように、また介護職の心を守るための、事業所単位でのカウンセリングや利用者情報の提供などセーフティ・システムを確立することではないでしょうか。

感情労働自体は、今後も、増えることはあっても、減ることはないでしょう。ですから、個々の介護職、事業所としても、感情労働にともなう負の面についての理解を深め、少しでもそれを減らすという努力が求められます。私たちは、感情労働を前提としつつ、それとの上手な付き合い方を学んでいかないとならないということです。それはすなわち、人間関係が生み出すストレスへの対応であり、その耐性を鍛えるような教育のあり方なのでしょう。

(2017年3月の記事より、再掲載)

【略歴】 昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。