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「秋」の俳句へのいざない

「秋」の俳句へのいざない

Kisaku



ELSにて日頃よりご活躍の皆さま、お疲れさまです。厳しい残暑が続いておりましたが、肌を焼くような夏の日差しも、ようやく影を潜めつつあります。まもなく秋の到来ですね。

私はこの時期になると、夏の暑さの鬱憤を張らすために、武蔵野の各地でランニングを再開するのですが、朝方や夕日の沈むころに涼やかな道をかけて行くと、静けさを帯び始めた樹木や草花の香りをかすかに感じることができ、それが楽しみの一つであります。

民家の間を縫うように進めば、楽しげな団らんの声や、食卓の香りが。商店街を駆けめぐれば、懐かしい香水の香りを感じたり、誰かに似た後ろ姿を目にしたときは、はっと足をゆるめてしまうことがあります。

凛とした秋の風情は、私にとって、忘れていた記憶が不意によみがえることや、なにかの始まりを感じさせてくれるような、そんな気持ちにさせてくれる、かすかに胸おどる季節でもあります。

さて、本稿では、秋の訪れへ向けて、個人的な気分から、少し叙情的な季節の俳句を3つ、紹介させていただきたいと思います。皆様も一緒にお付きあいいただければ、嬉しく思います。それでは。



壱『秋風や むしりたがりし 赤い花』

作者小林一茶

季語:秋風

意味:亡き子の墓参りに行くと、道端の赤い花が、秋風の中にゆれている。あの子がよくむしりたがっていた花だ。その赤さが目に染みて、悲しさが込み上げて来るのです。


弐『霧の世は 霧の世ながら さりながら』

作者:小林一茶

季語:霧

意味:この世はまるで霧のように儚いものだと知っている。知ってはいながら、あきらめきれないのだ。



参『この道や 行くひとなしに 秋の暮れ』

作者:松尾芭蕉

季語:秋の暮れ

意味:はるかに続くこの道には、通る人もなく、秋の夕暮れの寂しさが身に染みるものです。私の俳諧(はいかい)への道も、このようなものなのでしょうか。



我が子を早くに亡くしてしまった小林一茶の思いと、静寂で孤独な俳諧の旅を歩む松尾芭蕉の作品でした。いかがでしたか?どれも少し寂しいような、哀しい気持ちにさせてくれますね。

きっと昔の人々は、なにげない日常にあるものに豊かさを見いだし、その時々の情景を確かなものとして実感し、ときにはそれをこうした詩に吹きいれることで、たとえ「霧のような儚い世界」だとしても、強い心と確かな意思を持って歩むことができたのではないでしょうか?その文化は現在では、音楽や映画と様々な媒体を通して、霧の世を生きる私たちに勇気と活力を与えてくれます。

私は個人的に、季節の俳句や、静かな月夜に包まれるときは、部屋の明かりを消して、昔の友人や、もう会えない人、少年時代の思い出などの、記憶の深い海に身を沈めることがあります。心と体の痛みが、無限の水に流れていくことを願いながら、眠りに落ちるときを待つのです。

大切な人が遠くに去ってしまったとき、私たちはどうすればその人に会えるかわからず、ただ広い世界を呆然と見渡すのではないかと思います。


『孤独なとき、人間はまことの自分自身を感じる。 ―トルストイ― 』

『諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀(さい)のつのの様にただ独り歩め。 ―ブッダ― 』


もう会えない人とも、もし生まれ変ることができたなら、また会えるのでしょうか?

皆様、ときには遠くの記憶や親しき人に思いを馳せながら、この秋の夜を過ごしてみてはいかがでしょうか。今宵も月が綺麗ですよ。それではまたお会いしましょう。