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或る累犯障害者の思い出

或る累犯障害者の思い出

高浜敏之



Nさんとの出会いは東京のとある駅前のベンチだった。

Nさんがそこに寝ていた。というか、そこがNさんの居所だった。Nさんはホームレス生活を余儀なくされていた。

10数年前、リーマンショックという世界金融恐慌の余波を受け日本でも派遣切りがスタートし、貧困問題が社会的にクローズアップされていた。それに応じて反貧困運動の大きなうねりが呼び起こされ、私たちも仲間たちと共に東京都多摩地区を中心にホームレス支援活動を中心とした反貧困運動を展開した。

毎晩のように駅前の大通りに隣接するベンチのところでNさんが弁当を食べていたり、寝ていたりする姿を見かけた。ある日思い切ってNさんに話かけてみた。どうやら数週間前からこの場所を居所とし始めたらしい。それまでは神奈川県に住んでらっしゃったようだ。下肢に障害があるようで、歩行もままならない様子だった。

生活保護の申請を勧めてみた。ぜひ、とおっしゃるので、翌日駅前で待ち合わせ、申請の同行をさせていただく約束をした。定時になっても現れない。駅前を歩くとNさんがいつものベンチに何事もなかったかのように座ってる。約束の話をすると、なんのことだかわからないという様子だった。どうやら軽い記憶障害があるようだ。

何回約束しても忘れてしまうので、こうなったらと、近所に住んでいる障害を持った友人に車いすを借り、市役所に連絡して歩行困難なNさんと一緒に即日生活保護申請をすることにした。

申請に同行させていただき、ご自身の状況を説明するのが難しいNさんの代弁をさせていただいた。話し合いの途中、以前からおつきあいのあるケースワーカーさんから、「高浜さん、ちょっといいですか?」と別室に呼ばれた。

ケースワーカーの方が開口一番、「高浜さん、あの方どんな方がご存じですか?」となんとなく切迫した面持ちで問われ、「いいえ、最近お会いしたばかりなので」と答えた。その後、Nさんの詳細についてケースワーカーさんが説明してくれた。

どうやらNさんはとある刑務所から出所したばかりだという。今回は3年間刑に服していたが、以前にも20回以上の服役歴がある。ほとんどが窃盗などいわゆる軽犯罪というものだ。しかもNさんは軽い知的障害、認知症、骨頭壊死による下肢障害、などなど複数の障害を持つ重複障害者だった。反社会的組織のメンバーだったこともあるNさんの人生のほとんどが、いわゆるムショ暮らしだった。刑務所から出たものの、いわゆる無料低額宿泊所という施設も受け入れを拒否したNさんは、やむかたなく路上での生活を余儀なくされていた。衣食住が全く保障されない路上生活をしていたNさんにとって、刑務所はまさしく住居であり、Nさんにとっての軽犯罪は、居所を確保するための手段だった。

すなわち、Nさんは、いわゆる累犯障害者の一人だった。

生活保護申請は無事受理され、Nさんのアパート生活がスタートした。と同時に、ホームレス支援活動を共にしていた仲間の多くが障害福祉サービスの提供をお仕事としていたため、ケアマネージャーさんを中心にNさんの在宅生活を支えるためのサービス提供体制を構築し、私もヘルパーとしてチームケアのメンバーとなった。

また、生活保護の受給決定をする調査の過程で、Nさんのお母様が長野県のとある養護老人ホームに入所されていることが判明した。Nさんに事情を話し、お母様に会いたいか聞いたところ、ぜひ!とおっしゃったので、高齢福祉の分野で仕事をする私の弟とその同僚の力を借り、Nさんとお母様の再会プロジェクトを行った。

施設に到着し、職員の方にご案内いただき、面談室に向かった。Nさんのお母様がソファーに座ってらっしゃった。Nさんのお母様は90歳を超え、Nさん同様に認知症を発症していた。認知症の母と子の数十年ぶりの再会である。お二人とも認知症であり記憶障害があるため、もしかしたら覚えてないかも、という懸念があったが、お二人ともしっかりと覚えてらっしゃった。二人で昔話をし始めた。

1時間くらいの時が立ち、そろそろ帰りましょうか?と声をかけた。そうだね、とNさんがいくぶん寂しげな声で答えた。

Nさんに車いすに乗ってもらい施設を出ようとすると、お母様が突如号泣し始めた。泣きながら、元気でやれよ!と連呼した。何度も何度も連呼した。止むことがなかった。Nさんも泣き始めた。駐車場につき車に乗り込むときも、お母様の慟哭ともいえるような泣き声が、養護老人ホームのある山奥に木霊していた。

Nさんの社会的支援を活用した在宅生活の日常が再開した。その後Nさんの生活も安定してきたころに、私はユースタイルラボラトリーの立ち上げに参加することになり、Nさんを支援するチームからフェイドアウトしていった。

ある日、担当ケアマネージャーの方から電話があった。私が管理者と生活相談員を務めるデイサービスにNさんに通所してほしいとのこと。はじめはなんのことだかわからなかった。Nさん宅からデイサービス土屋中野坂上まで徒歩と電車を合わせると1時間半くらいかかる。決して近いとはいえない距離だ。

事情を聴いたところ、ケアマネージャーさんとしてはなんとかNさんにデイサービスに通所してもらい将来的には入所施設に入る必要があるのでその準備をしたいとのこと。またNさんの障害も日に日に重度化していき、やはりバリアフリー環境で入浴などをして清潔保持をしたい。ただし、長年のムショ暮らしで集団生活に極度の拒否感と恐怖感のあるNさんがどうしても首を縦に振ってくれない。私と1週間に1回再会するという名目で、デイサービス土屋中野坂上に通ってみてはと提案したら、それならいいよ、と快諾してくれた。往復についてはボランティア団体がサポートしてくれるようだ。

というわけで、週1回、1回片道1時間半をかけたNさんのデイサービス土屋中野坂上への通所プログラムがスタートした。

Nさんが来てくださったときは毎回私が入浴を担当させていただいたが、時折、またおふくろに会いたいなーとつぶやいていた。

お風呂に入ってるときのNさんは、とっても気持ちよさそうだった。

料理自慢の調理スタッフが作ってくれたご飯を食べるときのNさんも、すごくご満悦の様子だった。

人生のほとんどの時間を刑務所で暮らしていたNさんと、そんなことはつゆだに知らず長年大学で教鞭をとられた別のご利用者様が会話をしている場面も、全く違和感がなかった。

なぜこの人は人生のほとんどの時間を刑務所で暮らさざるをえなかったのか、ちょっとしたボタンの掛け違いだけではないのか、別の人生、別の道もあり得たんではないか、という思いがわくことが幾たびとあった。

デイサービスで集団生活になれ、心理的安全性を回復したNさんは、その後ケアマネージャーさんの提案を快諾し、地域の特別養護老人ホームに入所された。

以来、Nさんとは会えてない。その後どうしているかもわからない。

最後にNさんと会ってからだいぶ時間が過ぎた。

しかし、Nさんの、またおふくろに会いたいなーというお風呂場でのつぶやきは、鮮明な記憶として私の脳裏に刻まれている。


高浜敏之
土屋訪問介護事業所GM。ユースタイルラボラトリー株式会社COO。全国障害者在宅生活支援事業者連絡会代表。慶応義塾大学文学部卒。哲学科美学美術史学専攻。20代は様々な職業遍歴を経て、30歳で重度訪問介護というサービスと出会い、福祉の仕事をスタート。それと同時に日本の障害者運動のパイオニアである新田勲さんが代表を務める全国公的介護保障要求者組合の事務局を担うことに。30代はホームレス支援、移住外国人労働者支援など社会的マイナリティーの権利回復運動にコミット。その後東京都中野区にあるグループホームでの介護職員を経て2012年5月にユースタイルラボラトリー株式会社の立ち上げに参加。デイサービス土屋中野坂上の管理者、生活相談員を経て土屋訪問介護事業所やユースタイルカレッジを立ち上げる。現在は土屋訪問介護事業所を統括しながら事業者ネットワークの発起人として活動する。趣味はボクシング、アート、文学、など。