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排泄介護・介助におもうこと

排泄介護・介助におもうこと

古本聡



人間を含む動物はすべからく、生きている限りオシッコやウンコが出るものです。それは、生きている証の一つでもあるのですが、その一方で、排泄という行為も、またその行為の痕跡も、他人に見られては恥ずかしいことである、と広く認識されています。しかしながら、この排泄というものに対して大きな羞恥心を抱くのは、日本人、特に現代の日本人独特の感情だともいわれています。便座の間に仕切り壁がない中国のトイレは、テレビなどで既にお馴染みですし、私が住んだことのあるロシアや、滞在した欧州諸国(特に、学校や安い宿泊施設などで)においても状況は似ています。割とオープンで、少なくとも同性の間では排便を恥ずかしい行為とは考えていないようなのです。さらには、そこら辺で”用を足す”のは当たり前、という国もまだまだあります。

今回、この排泄について書いてみようと思ったのは、それが業務としての介護に非常に密接な、そして介護者・被介護者の双方にとって大変ストレスフルな事柄であるとともに、そこにある問題点を、排泄に大きな羞恥心を抱く一日本人として、障害が重くなりつつある一障害当事者として、いざその面での介護・介助を受けることになった時、精神面でどのように対処すればよいのか、考えてみたかったからです。

身体に障害があると、場合によっては、この排泄という、生理的に自然で不可欠な現象がすごく煩わしいことに思えることがしばしばあります。が、個室に籠って他者に遠慮なく、自分で排泄を行うということは、やはりこの上ない快感でもあります。それは、障害の有無に関係なく人が抱く感覚でしょう。しかしながら、その行為、あるいはその行為の結果を誰かに見られることになれば、それまでは快感だったことが、情けなさや恥ずかしさに変わってしまうのではないでしょうか。その要因として考えられるのは、排泄に際しては一種の無防備状態になるので、一人で安全な場所で行うという習慣を人類は身に付けた、ということもあるでしょう。また排泄物が病気をもたらす可能性があること、あるいは糞尿が農業にとっては貴重な肥料となることが発見され、ますます特定の場所での排泄が推奨され、それ以外での排泄を「恥ずかしいこと」、さらに後には「悪いこと」として認識する文化が形成されたのだ、とも考えられます。また、生殖器を晒すことが異性に対して不必要な発情を促し、生命を脅かすということを人類が認識したことも関係があるでしょう。このようにして、排泄は、高度にプライベートな行為になったわけです。

そもそも排泄は、体内から老廃物を外に出す生理です。先述のとおり、生きて行くためには不可欠の行為ですが、私たちの社会では、それを誰かに見られるということは、たいへんな苦痛となるものでもあります。ですから、この生理行為は、たとえ自分の身体が不自由だとしても、またいくら高齢になったとしても、最後まで他人には任せたくない、できることなら自分でなんとかしたい、と思うものなのです。介護職の皆さんには、この思いや望みに上手く寄り添い、それを被介護・被介助者本人の、自分でやりたい・やらねば、という意欲に繋げていって欲しいのです。そいう視点も大事だと思うのです。

それでもいつかは、排泄行為を自分では管理、遂行しきれない時がやってきます。その時、被介護・被介助者は、大きな羞恥心と情けなさ、遣る瀬無さを感じ、はたまた絶望感さえも抱くかもしれません。その結果として、自信を失い、他人に遠慮して排泄を我慢してしまったりすることもあるようです。排泄は、ただ不要なものを外に出すというものではなく、人間にとって非常に個人的な行為であり、その個人性がなくなると、他の生活要素に対しても、心理的に否定的な影響が出てしまうものなのです。

私は中学時代を養護学校という一種特殊な世界で過ごしました。そこの小学低学年のクラスで目撃した光景が、私にとって余りにも衝撃的だったので、今でも時折夢に見ることさえあります。その光景とは、教室の中に囲いもなく設置された白い洋式便器とシャワー、そのシャワーでお尻を洗浄されている子、そしてそのすぐ横で給食を介助員に食べさせてもらっている、その子の同級生たちの図です。中には、知能障害を持っていない子、持っていても軽度の子もいたにもかかわらず、そういうことが実際に行われていたのです。もうかれこれ40年以上も前のことですから、今ではあんな状況は解消されていると信じたいのですが、その一方であの子たちは果たして、まともな羞恥心、プライバシー観を持てるよう育つことができたのか、尊厳ある人間として生きているのだろうか、という疑問を常に感じています。排泄が人間の心理と思考に及ぼす影響は非常に大きいのです。

排泄行為というものは、普通はトイレで行います。日本のトイレは大概、プライバシーが守れるよう設計されています。特に、排泄行為そのものはもちろん、排泄に伴う匂いや音が外部にもれでない工夫もなされていますが、介護においては、ポータブルトイレの使用や床上排泄が必要になるケースもあります。そんな場合には、また更なる排泄環境を整備することが重要になるのは、当然でしょう。近くに人がいたり、人の気配がしたりするだけで、私たちは排泄するに際してストレスを感じることになります。例えばスーパーマーケットや駅にある、複数の個室から成るトイレで用を足す際、自分以外に誰もいないときの、あの深い安堵感を思い起こしてみてください。他者に遠慮なく排泄できることは、私たちにこの上ない快感をもたらしてくれるのです。介護においても、その点にもっともっと配慮をしていただきたいと思うのです。

自分で排泄がうまくできなくなると、外出するのが億劫になります。私もそうです。万が一、外でトイレに失敗した時のことを考えると、ついつい内向き志向に陥ってしまうのです。なんとか気力を奮い立たせ家から出るのですが、いつかはそんなマイナス思考にまけてしまうのかな、と漠然と不安になります。そんな状態になったら、社会生活を送れなくなってしまいます。例え排泄が上手くできなくなったとしても、尿取りパッド類や導尿器、車いす用トイレをフル活用していくことで、なんとか社会生活の範囲を維持、拡大していくことも重要でしょう。

自分で排泄が上手くできなくなってくると、被介護・被介助者は、自分の排泄が他者にどのように受け止められているのかを敏感に感じます。これは、実は言うと、個人の生の意味を問うほどにも重大なことなのです。人間の尊厳の問題なのです。表現として大げさに感じられるかもしれませんが、これは事実です。介護者として、ここの対応を誤ると、被介護・被介助者は生活する意欲を失ってしまったり、また一方では、何もかも人任せという極端な依存状態に陥ってしまったりもします。介護職は、この点をよく認識はしているのでしょうが、しかし、意外と軽く考えられていたりするので、注意する必要があるのではないでしょうか。

私の個人的な付き合いの範囲内には、介護職に就いていらっしゃる方が、結構な数おられます。酒飲みの場などで、その方たちの口からときおり、「あのバァさん、ウンコさえ漏らさなきゃ、結構付き合いやすいんだけどね」などという言葉を聞くことがあります。悪気がない言葉だということも、そしてそういう愚痴を明るくこぼすことで、ストレスを大いに発散していることもよく分かってはいます。しかし、私としては、自分がいつかは面倒を掛けることになる、ということを考えると、遣る瀬無い気分で一杯になってしまうのです。
ちなみに、私の妻も高齢者向けの訪問介護に従事していますが、私の心理を深く理解してくれているようで、上記のような言葉を吐くようなことはありません。妻自身も老いが来れば、利用者さんと同じ立場になるかもしれない、ということも分かっているのでしょう。

被介護・被介助者の排泄という生活行為の一つに、介護・介助職がどのように関わっていくかによって、被介護・被介助者の生きることへの自信、自分の存在肯定観が大きく左右されます。私が介護・介助職に望むのは、その意識と方法論を拡充・強化していってもらいたい、ということです。社内勉強会などが催されるべき、と言ってもいいほどの事柄だとも思います。社外でも、地域で排泄に関するセミナーなどがあれば、積極的に受講することをぜひ検討してみてください。

(2017年3月の記事より、再掲載)

【略歴】 昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。