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星新一 『殉職』

星新一 『殉職』

Kisaku



本作品は、私が高校時代に出会ったなかでも、ひときわ大きな感動をもたらした小説だ。
これは、1000を越える作品を産み出した、日本におけるSF小説の第一人者である星新一の短編集のなかでも、1~2を争うと言われている作品である。

あらすじは以下のとおりだ。



近未来における都市、ある科学者がーー死者の世界と交信する機械を発明した。
機械は、死者の魂と死後の世界の存在を世にしらしめた。肉体なきその世界では、この世を去った全てのものが供にあり、高次へ至った精神の集合体となりて、無上の快楽とゆるしに満ち溢れていた。ひとつの機械のもとに、永遠の安らぎがここに約束されたのだ。
さて、これを目の当たりにした人々は、みな一様に機械にふれて、それぞれの望む亡きものと交信したのちに、もはや苦難に溢れたこの世にとどまる理由がないとして、たちどころに自ら命を絶ち、機械の向こう側へと移り行くことを望んだ。やがて世界中から機械を求め、人々が殺到した。法律や階級は瞬く間に崩れ去り、世界は混沌に包まれた。そして
ーー世界中におびただしい数の死体の山が築き上げられたーー
自ら残った者たちは、新たな世界を求め、旅を始めたーー。



高校時代、苦痛に満ちたときを過ごしていた頃、考えたことがある。なぜ多くの者たちが、この世界の理不尽なルールや、エンドレスなゲームに生まれながらに強請参加させられ、いやいやながらも「生なるもの」にそれぞれの価値や解釈を見いだし、今日を嘆きながら明日のために眠りにつかなければならないのか。なぜ私は、無条件に「生きる」ことを受け入れーーというよりはリタイアすることを諦め、日々のささいな糧をよりどころに、それをすがって生きているのか。そんな風に悩んだ時期があった。今となってはそれも、いい思い出である。

もちろん、そんな疑問を抱くことなく、幸せに生きる人々も数多くいるし、苦境のさなかにあっても力強く生きる人が多くいることも、むろん知っている。とにもかくにも、我々を肉体として、この世に縛り付けている、絆とも呪いとも言うべき「なにか」を私はわからずに生きていた。

そんな中私は、この作品に出会い、ここに、その答えの一端を垣間見た。以下に、本作品の一説を引用したいと思う。



ーー私たち人間を、たえず悩ましつづけているものは、なんでしょう。それは、だれもが知らん顔をしているが、○○○○にほかなりません。だが、もはや安心です。この機械の完成によって、あの世のすばらしいことが、実証されました。最新の科学は、○○○○を克服したのですーー



この台詞を残し、科学者は自身の死をもって、この言葉の真意を証明した。そして、多くの人々がそれに続き、自らこの世を去った。このとき人々とこの世を繋ぐ「絆」が唐突に失われたのである。



ーー人間というものは、なんのために生きているのだろう。この答えが出たのだった。つまり、○○○○だけで支えられていたらしい。いまや機械がその黒い霧を消した。さわぎをとめることのできるものは、なかったーー



本作品における○○○○。ここでは「それ」とするが、筆者の真意とするところによれば、我々が社会の一員として健全に機能し、社会が社会として乱れることなく機能しているためには、「それ」が不可欠であり、どうやら一説によると、私たちは「それ」があるからこそ、誰かを愛し、他者のために剣をとることができる、ということらしい。じつはこれらの言葉の裏には、いささか危険な響きを孕んでいるのだが、もちろん、これを信じるも信じないも、個人の信条の自由であると私は思う。

さて、もし仮に将来、現実社会にこのような機械が発明されたとして、この小説の様に、人間から「それ」が取り払われたとき、機械の前には、自害を望む人々の列でひしめきあうだろうか。それとも、そのような空前絶後の時代の到来の前に、機械を必要としない世界が訪れるだろうか。死後の世界の実在が証明されたとき、果たしてこれと同じことが全くおこらないと、誰が証明できるだろうか?影のなかを多く歩いてきた私としては、程度の違いこそあれ、必ずおこると思っている。

今日頬を触れあわせた人は、明日は機械の向こう側にいるかもしれない。そのような苦痛をもってしても私たちをこの世に縛りつけるものは、「それ」にほかならない。○○○○。ここに当てはまるもの、それはほかならぬ
ーー「死の恐怖」である。

私たちの精神は無条件に生を渇望しているが、同時に無意識の奥深くでは、死を欲望しているという。今日、それはフロイドによって「タナトス(死の欲動)」と名付けられている。

私たちは普段、燃え盛る炎を目にして、綺麗だとは感じるが、身を投げてみたいとは思わないだろう。なぜか、言うまでもなく、死への恐怖、痛みへの怯えがあるからである。しかし、山の頂(いただき)や高層ビルから圧倒的な景色を目の前にしたとき、「ここから飛び降りてみたい」という好奇心に駆られたことが、一度でもないだろうか?もしそう感じたのなら、それがタナトスだ。

もし、死の恐怖の一切が取り払われたとき、人はどうなるか。そのとき人は、引力のようなタナトスに引きずり込まれてしまうのではないのだろうか。ちょうど死体の山をのり越えて、機械へむらがる群衆のように。

この『殉職』という小説は、高度な知性を有するがゆえの、人の精神の脆さというものを、実に巧みに表現している。



「死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである ーエリック・ホッファー」

「人間は、死ぬことを密かに望んだので戦争をしたのである。自己保存の欲求は極めて深いものかもしれないが、死への欲情はさらに深い。 ーC・ウィルソン」



もし、近い将来、科学の叡知(えいち)が霊なるものと神の領域に達した未来、死によって訪れる世界が、ここよりも遥かに安寧(あんねい)で快楽に満ちたものであり、我々の罪深さによらず、全てのものに救いと永遠の安らぎが約束されたとして、 多くの人が望んで自らの胸に引き金を引いても、それでも自分は機械のスイッチを入れないと自信をもって言える人が、今どれだけいるだろうか?自分だけは肉体を捨てずに生を選ぶ、願わくば、誰もがそう思える社会であってほしい。

小説『殉職』は鋭い光をはなって、今日も問い続けます