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『情報の質と量と偏見・理解の関係』

『情報の質と量と偏見・理解の関係』

古本聡



実は言うと、身体障碍者の私は、知的障碍の人の傍に居合わせた時など、視線の向きを変えたり、連れがいればその連れに話しかけたりして、その知的障碍者の方の注意がこちらに向かないよう、あるいは向いても、さりげなく目が合わないように振舞います。というのも、私は若い頃からずっと、何故だか、知的障碍者、特に歩けはするけれど知的障碍は比較的重い方たちに好かれやすい、というか懐かれやすい傾向があるからです。彼らが私に何かを一生懸命に伝えようとするとき、その感情はひしひしと感じるのですが、どう応じたらいいのか、どう対処していいのかが、正直言って分からないのです。いきなり抱きつかれて転倒してしまった経験もあり、身体を素早く翻したり、咄嗟に避けたりできない私の、自分なりの「防御」という意味でもそのように行動してきました。十代の頃などは、もっと露骨に、即座に身構えてその場から逃げ出していました。

どの知的障碍の方も同じ行動をとる訳でもないのに、避けよう、先に防御の構えを取ってしまうのは、れっきとした「偏見」であり、「差別」です。それは重々認識しています。「自分も障碍者なのに酷い奴だ!最低だ!」と言われてしまうかもしれませんが、そういう誹りには「どうしようもないことなんです」、と割り切って答えるようにしています。なぜなら、私は知的障碍のことをあまり良く知りませんし、十代の頃は、知らない・分からないが故に、「怖い」とさえ感じていたのです。後に、知的障碍者支援に従事する方と知り合い、知的障碍者のことを少し知ることができて、やっと苦手意識が徐々に減ってきました。
 
数年程前、次のような場面に出くわしたことがありました。
電車での移動中、20歳過ぎくらいの知的障碍の青年と介護者らしき中年男性が、同じ車両に乗ってきました。青年は少しはしゃぎ気味で、時折言葉にならない声を発して車内を動こうとして、何度も介護の人に引き戻されていました。ピリっと緊張した空気が車両内に広がりました。すると、60歳代くらいの恰幅のいい初老女性が、つかつかと青年の介護者の傍に歩み寄って、大きめの声でこう言い放ちました。

「あなたね、こういう障害の人を、十分に躾けもせずに外に連れ出したりして、いったい何考えてんのよ。ちゃんと言うことを聞かせられないんなら、こうして連れてくること自体が迷惑なんだから!」。

あの初老女性の頭の中では、知的障碍は「躾け」で矯正できるものだ、というイメージが焼きついちゃってるんだろうなぁ・・・。そして、身体障碍も同じように、他人に迷惑をかけずにひっそりと生活することがベストだ、と当然のように考えちゃってるんだろうなぁ・・・、とその時私は思ったのでした。

恐らく、居合わせた多くの人たちがこの初老女性に対して、「最低だな!」、あるいは「あんな大声であそこまで言わなくても・・・」という感想を持ったことでしょう。一部の積極的な優生思想を持つ人以外は。しかし、私は、勿論ああいう場面で「迷惑だ」と言い切ってしまうかどうかは、その人の知性と品格の問題だとは思いますが、あの初老の女性がつい酷い言葉を口に出してしまったことも何となく、気持ち的には分かったのです。私が十代の頃に抱いていた、無知が故の「恐れ」を、あの女性も持っていたのかもしれません。

「そのバアさんは非常識だ」、「そんなこと平気で言う人の気が知れない」、「あのバアさん自身もうすぐ人に迷惑をかける立場になるのに・・・」、「迷惑なんて言う方が最低だ」、と私の友人、知り合いは口を揃えて言いました。これが一般的な感想でしょう。正しい意見であり、全くもってその通りなのです。

一方では、日常的に障碍者と接する機会が多く障碍者のリアルを知っている人、例えば家族や交友関係、同僚に障碍者がいる人、福祉関係者の方々は、人の価値は障害の有無に関係なく、人は誰でも違いがある」という感覚を当然のことのように持っています。「迷惑」という考え方はしないでしょう。
 
また一方では反対に、自分の周囲に障碍者がいない人は、障碍者のことをよく知らないが故に「怖い!」、「迷惑だ!」と考える場合もあることでしょう。またお涙頂戴の安物ドラマを観て、「障碍者=人知れず頑張って生きる人たち」、というイメージが固まってしまって、そこから逸脱する障碍者を「怖い」と感じるのかもしれません。
 
考えてみると、この両者の考え方の違いは、与えられている情報の質と量によるものだ、と思うのです。上記のケースで言えば、一方は、知的障碍者のことを、ある程度正しく、また常識的な量において知っているから、「迷惑」と言い切ったあの初老女性に憤りを覚えるのであり、もう一方は、知的障碍者のことを必要な程度にも知らないし、少し知ってはいてもそれが正しい情報ではないから、「迷惑」と言ってしまったのでしょう。どちらかが善で、もう一方が悪という訳ではなく、持っている情報の質と量に差があったことで考え方と言動が違ってしまう、ということです。必要な情報を必要な量において得ていないことで、偏見や先入観が出てきてしまったとも言えるでしょう。

ただ、考え方によっては、たとえ知性や品格はなかったとしても、件の初老女性の態度は偽善的ではなく、むしろ誠実だったのかもしれない、という気もします。感じたことを率直にそのまま言葉にしてしまい、その言葉を他の人がどう捉えるかについては考えが及ばなかっただけなのでしょう。無知ではありますが、少なくとも悪気はなく、罪深いとまでは言えないでしょう。あの女性以外の、あの場に居合わせた人たちも、ひょっとしたら同じ気持ちを抱いていたかもしれませんしね。
その反対に、私の友人や知り合いのように、あの初老女性の人格さえ否定する批判をしている方が不誠実なのかもしれません。障碍者についての知識や情報を持っていなかった初老女性に対して、正しい情報を豊富に持っている側が上から目線で物を言っているように見えなくもありません。勿論、あの女性が、信念にまで凝り固まった偏見から物を言っている可能性も排除できませんが。
 
正しい情報を豊富に持っている側にしてみれば、情報を得ていることが当前だ、と感じているから、情報を持っていない側に対して、情報がないこと自体が理解不能な状態であり、知識や情報を持っていない側は、情報がないことが当たり前なのだから、何も分からない状態にあるのです。障碍者支援、高齢者支援をはじめ、社会的弱者の支援に携わる人たちと、弱者支援活動とは無関係に生活している人たちの間でよく見られる、ある意味対立的な状況です。普段から関わっているからこそ持っている知識や情報があり、関わっていなければ、自分から求めない限り、そのような知識や情報は得られないのです。まさにその点のズレによって、互いが互いを認識できない状況が発生してしまうのではないでしょうか。
相手は知らないだろう、という前提で相手に知識と情報を丁寧に伝え、受け手は「自分がまだ知らない情報を得られるんだ」というオープンな心持ちで伝えられた知識と情報を受け取るような、そんな環境にならなければ、結果として、支援を受けるべき要支援者本人が一番困ってしまうかもしれません。

ちなみに、ここで述べてきたことは知的障碍者のみならず、身体、視覚、聴覚、精神、内部などの障碍者、果ては高齢者、妊婦さん、全ての理解されにくい、もしくは誤解されやすい人たちについても当てはまることでしょう。

障碍者についての無知または誤解から生まれた、あの初老女性の「迷惑なのよ!」という発言の裏側には、障碍者の社会進出や社会による受容といった問題を解決するためのヒントが隠されているのかもしれませんね。
(2018年2月の記事より再掲載)

【略歴】 昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。