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『エスという映画をみて』

『エスという映画をみて』

安積遊歩



エスという映画を見た。治験の事実をもとに、作られた囚人と看守役に役割を振られた人たちが、4000マルクの報酬を目当てに2週間を監房の中で過ごすという198 年の映画だ。これは2度ほどの大学内での実験結果をもとにしている。映画という虚構のうえに実験自体も虚構だから、2つの虚構の上に人間の暴力性や残酷さとそこからの脱出を試みようとする映画だった。
とにかく怖かった。何が怖かったかと言って、隔離と管理が先行する社会に立場が弱く置かれていれば、容易に命までも奪われていく。障害を持つ人の歴史をギューっと凝縮したような囚人の有り様が怖かった。

見ながら障害を持つ私たちの歴史を思っていた。昨今出生前診断がどんどんと日常化し、高齢女性や放射能地域に住む女性たちは、悩み葛藤しながら、出生前診断を受け中絶を選択せざるを得ない状況が肥大化している。胎児には命を選別しないでと叫ぶ力も権利も全くないから、女たちは男との対話を諦めて中絶を選択せざるを得なくなる。もしここに産んでも育てられるという経済的な状況があれば、自らの体をも傷つける出生前診断を選ぶ女性は激減する。もしかしたらゼロになるかもしれない。つまり、胎児の命はこの社会の全体的あり様に激しく追い詰められているのであって、女性たち個々人の問題に還元するのはあまりに安直で愚かな結論だ。

映画を見ながらこの社会が監獄全体で囚人役が女性と胎児、看守役が男性でそして看守に無茶苦茶な実験を続けるように命令する教授や研究者がこの経済至上主義のシステムのようだと感じていた。私たちは何が幸せか、どう生きたいのかの真実を、あまりの隔離と管理が先行する中にいると容易に見失う。だから、施設はだめなのだ。そこにいたいという主体的意思がない中で集められ、仕事もなく生活させられる人々の悲惨は、人間の歴史のあちこちでも証明されている。

そんな中、重度訪問介護制度は人間の真実を求めて止まない可能性を追求した制度であると思うのだ。2人の人間が自由と幸福を求めて、関わり合おうという中に経済的生産性はまるでないかに見える。しかし、税金として集められた「みんなのお金」をお互いに分かち合っての関わりだから、その関わり自体が生産的とも言えるのだ。つまり繰り返しとなるが、人としてもっとも大切な、自由と幸福をお互いで生産しているのである。

この経済至上主義の社会のシステムは自由と幸福の追求は芸術的の中で行われるとしてきた。とするならば、重度訪問介護制度を使っての暮らしは、その生活、暮らしそのものが芸術にさえなりうる可能性があるかもしれない。
2014年から重度訪問介護制度が重度の知的をもつ人にも拡充された。それを使って、少しずつではあるが、隔離と管理の施設を出て、地域の中で暮らす仲間が増えてきた。今までの社会にはなかった暮らしがそこにはある。つまり、意思がはっきりしないとかコミュニケーション能力がほとんどないとレッテルを貼られた人たちが、それを聞こうとする側の働きかけと障害を持つ彼らのともにあろう、ともに生きようとする力によってそれぞれユニークな生活や暮らしを立てている。

それを映像化した「道草」というドキュメンタリーがある。4人の重い知的障害を持っている人たちが登場する映画で、そのうちの2人はすでにアパートで介助者と暮らし、もう2人はそれを目指して努力中。その努力も本人だけの努力ではなく、関わる事業所、介助者、家族、そして地域にも広がっている。そのそれぞれが管理的な眼差しをやめ、多様性の尊重とともに生きるチャレンジを淡々と描いている。

「道草」のことについてはまた次回にゆっくりときちんと書く。ただもう一度強調したいことは、今回のエスという映画に象徴されるような隔離と管理の社会から出るようとする重度訪問介護制度は、混迷する社会の中にあって、平和とは何かを考えるための希望のシステムであるということなのだ。


【略歴】
1956年、福島県福島市生まれ。生まれつき骨が弱いという特徴をもつ。22歳で親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介。障害者の自立生活運動をはじめ、様々な分野で当事者として発信を行なっている。
2019年7月、NHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。