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呼び声について

呼び声について

高浜敏之

なぜ私自身がこの障害福祉の世界にいるのか、留まったのか、一度は離れたものの再び回帰したのか、ふと考える。

功利主義的な選択でなかったことは確かだろう。この業界に入ってからはじめの10年くらいは時給で働いていた。すなわち非正規労働者である。もちろん収入は不安定でアップサイドも低かった。経済原則、すなわち得か損か、というところに立脚するなら、この選択は間違いだった。

しかし、当時も今も、この選択が間違えてたと解釈したことはまずなかった。後悔ということをあまりしないタイプではあるのだが、性格特性だけには還元できないようにも思える。

かつての学友たちは誰もが知ってる有名企業に就職し、若くして管理職ポジションに就き、それなりの収入と裁量を得ていたが、負け惜しみなしに、正直羨ましいという感情などが少なくとも表層意識レベルに現れたことはほとんどない。

何でだろう?ユースタイルラボラトリーの立ち上げに参加して以来数年間が経ち、一応それなりの社会経験を積ませていただき常識的視座も一定獲得されつつあるなかで、ふと考える。

ずれてる、そのとおりかもしれない、たしかに子供のころからなんかずれてた、しかし、前述したように、性格特性だけでは説明できないようにも思える、一般企業にだって、なんかずれてる、人はいるはずだ。

呼び声の記憶が残る。

その声の内容の記憶は定かではない。ただ、とにかく、呼び声が聞こえ、それに応えたいという衝迫が私たちのなかに芽吹いた思い出がたしかにある。

その声の切実さは、安易に去る、という選択を許さない内実があった。内容は忘却されたが、インパクトの明晰さは薄れない。

その声に応えることは生きること、存在すること、働くことに、新しい意味と価値を付与し、その意味論的な報酬が当時においては生み出す付加価値に対する対価を得るという経済原則に基づく交換価値を超えた。

飛躍するが、もし自分に死が宣告されたとして、残りの時間をいかに生きるか、考える。享楽を尽くすのも悪くないかもしれない、死の不安定に耐えられず、自ら終末を引き寄せるかもしれない、体験していないので正直わからないが、誰かの呼び声に応える、そのことに集中する、それが一番しっくりする。

精神科医のフランクルも語るとおり、私たちは意味を求める存在だ。そしてこの意味は関係性からたち現れると言語学者のソシュールは語った。

呼び声は社会のなかに、日常のなかに木霊している。ただ、私たちが出会った呼び声の強度には一定の特異性があった。精神の最深部にその響きが伝わって来るような強度があり、それはある意味、あまりにも文学的、ですらあった。

もしかしたら私はもはやそのあまりにも文学的ですらある呼び声が届かない場所にいまは立っているかもしれない。もはや思い出と時折垣間見える風景だけが私自身の活動の資源かもしれない。

思想家シオランは、聖性に私たちを近づけるのは認識ではなく魂の深淵の涙の目覚めだと語った。私たちはたくさん得ることを通じて多くを失う。少年時代に身近であった涙は年齢や経験を重ね、意識が堆積し、最深部に身を潜めてしまった。

その涙の目覚めを呼び声が求めているのかもしれない。朝食の準備が整ったとき、妻が娘たちを揺さぶり目覚めを促すように。