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生と死について43  「生」は膨大な圧倒的「死」の中に小さく存在する

生と死について43  「生」は膨大な圧倒的「死」の中に小さく存在する

KISAKU



ーことばは沈黙に

 光は闇に

 生は死の中にこそあるものなれー

これは、『ゲド戦記』
(アーシュラ・K・ル=グウィン著)の冒頭に記された言葉の一部だ。

とても力のある言葉だと私は思う。

力のある言葉はいつも、我々の奥深くに燃える炎に新たな薪(まき)をくべる。

この言葉の解釈をしよう。

我々の認知機能は普段、陽の光の中に影を見つけ、喧騒と静けさの差を聞きとり、自身の生命活動の最中に、近しい者との死別によって、「死」を間近に体感する。

これはあくまで、認知機能から見た話だ。

『ゲド戦記』のこの言葉が意味するには、

この世界は、永遠の沈黙の中にこそ、我々が発する言葉や叫びがかすかに響いているのであり、無限の闇の中に太陽や月の一筋の光やランプの輝きがあり、

我々の「生」は、膨大な圧倒的「死」や「無」という事象の中に含まれる形で小さく存在するということらしい。

もとより、人を含むあらゆる生物は、「死」や「無」と呼ばれる存在すらまだ無い中から奇跡的な確率で生まれた小さな細胞の爆発的な分裂によって自らを形づくり、卵や母体の中から脱出することで「誕生」する。

そしてだいたいの人間の場合は子孫を残すか否かの選択をして(人の人生は子孫を残すか否かといった要素だけで構成されているわけではないということは置いておいて)、やがて年老いていき、最後はそれぞれの選択・非選択の先に待ち受ける多様な形の「死」を迎える。

始まりにも終わりにも、「死」がある。

我々は「死」から生まれ、最後は「死」へ帰る。

  「死」は誰のもとにも平等に訪れる。

誰ひとりとしてたがわない。

そこで思う。

「人生」をどう生きるか。

「死」という膨大な圧倒的存在の中に奇跡的に誕生した小さな光である我々は、その輝きが尽きるまでに、どれほど大きなものを残せるだろうか。

いや、大きくなくていい。大きくなくていいから、何かを残したい。自分が生きた証を。そう思うことがある。

だからみんな自分の子供を欲しがるのだろうか?

もし自分に子供ができたら、私はその子をどれだけ愛することができ、自分の命が尽きるまでに、どれだけ多くのものを与えられるだろうか。

最近たまにそんなことを考える。

私が生きていることを実感する瞬間は、人と関わっているとき。大きな自然に触れたとき。リングの上で殴り合いをしているとき。

私が死を身近に感じる瞬間は、寒い日に胸が突然痛みだしたとき。圧倒的な景色を目の前にしたとき。夜の山を一人歩いているとき。霊的な事象に触れたとき。

私は死を感じる瞬間が好きだ。死を身近に感じることで、相対的に生を実感できるからだ。

なにかの気まぐれの拍子に大きな死の淵へ落ちてしまわないように、どんなときでも「生」を感じながら歩んでゆきたい。