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インクルージョンからインテグレーションへ

インクルージョンからインテグレーションへ

古本聡




昨年、リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピック、そして2020年の東京五輪に向けてのパラリンピック選手たちに対する政治的・マスコミ的フィーチャー振りを観ていて、いろいろと思うことがありました。

まず、パラリンピック選手にスポットライトが当てられ、活躍ぶりが報道されること自体は評価できることだと思うのですが、それにしても、なぜ、4年後に東京五輪が差し迫った時に、急にフィーチャーされ始めるのでしょうか? 今までは競技の放送さえまともに行われてこなかったのに。主催国としての体裁のためとしか思えないのですが、私の見方が捻くれてるのでしょうか?

次に、銀座で行われた凱旋パレード。なぜ、オリンピック選手とパラリンピック選手が別々のバスに乗っていたのか、ちょっとした違和感が沸きました。そもそも、今の時代にオリンピックとパラリンピックを同時に開催しない理由はまだあるのか、あるとしたらそれはどんな理由なのか、いろいろ考えてしまいました。もちろん、発症の歴史も経緯も十分に承知していますが・・・。

「障碍者であろうと行きたい所にふつうに行ける、街中でふつうに活動できる、ふつうに仕事ができる、ふつうにスポーツもできるし、恋愛もセックスもふつうにできる」。そんな、様々な場面で、「ふつうの人」が「ふつう」にできることが、できる社会を作ること、それこそが、現代の障碍者施策が目指すべき方向性であり、社会が向かうべき方向なのではないでしょうか。だからこそ、障碍者のスポーツもまた「ふつう」にできないのは何故なのか。オリンピックとパラリンピックを統合(integration)できないのは何故なのか、と。

障害者差別禁止法が施行され、今は、企業でもどこでも障碍者が、そうでない人たちとともに、「ふつうに」同じように仕事をしたり、生活したりすることを目標として、それに向かっている時代です。スポーツの祭典で「健常者・障碍者」、というような陳腐化した分け方をする必要が何処にあるのでしょうか。ちょっと想像してみて貰えばわかると思いますが、もしオリンピックが、白人専用オリンピックと有色人種専用オリンピックに分けられて開催されていたとしたら、それは誰が見ても明らかな人種差別であり、厳しい批判を受けるでしょう。もしくは、男子オリンピックと女子オリンピックが別々の大会として開催されていたら、明らかな女性差別になってしまうでしょう。そんなことは、現代では非常識ですよね。にもかかわらず、何故、「健常者・障碍者」の区別は、「常識」として考えられ、行われているのでしょうか。

そういうことを考える度、これは「公認の差別」ではないのか、障碍者である前にアスリートなのだから、パラリンピックも特別視せずに、普通にスポーツとして見るべきではないか、と思えてならないのです。

何も、障碍者もそうでない人たちも、同じ土俵で戦え、と言っているわけでは決してありません。大概のスポーツ種目は、競技の公平性を保つために、男子と女子に分けられています。あるいは、格闘技などは体重別の階級制になっています。競技である以上、種目別に適切なレギュレーションを設けることは、当然必要になります。種目によっては、障碍者アスリートとそうではない選手たちと分ける必要も、もちろんあるでしょう。しかし、車椅子バスケットボールのように、現状でも障碍者と健全者が入り混じって競技するような種目もあるのです。そのような種目は、障害の有無による区別なく出場できるようにすればよい、とおもいませんか。つまり、種目別にレギュレーションを考えればよいだけの話なのです。

オリンピック憲章には「スポーツの実践はひとつの人権である」と明記されています。ですから、そもそもその憲章の精神から言っても、パラリンピックとオリンピックは統合すべきなのです。障碍者には、他の人と同じ人権があります。このことは既に常識として捉えられています。一方、その障碍者の人権の考え方も、実は時代によって変化してきました。そして、今、「ふつうに生活する」ことの実現に、その考え方は向かっています。この「ふつうの生活」の実現こそが障碍者の人権であるとも言えると考えられます。だからこそ、障碍者のスポーツもまた「ふつう」に行われるものになって然るべきなのです。

パラリンピックを見て、もう一つ思ったことがあります。
それは、障碍者のスポーツが、宝塚少女歌劇団よろしく、「清く、正しく、美しく」という風に報道されることです。選手同士の喧嘩になったり、ラフプレイで揉めていたり、少し汚いプレーをしていたり、ドーピングが発覚したりするのも、「ふつう」にスポーツすることの一部のはずです。それが、何処かで障碍者スポーツは綺麗なものというイメージが広められているような気がしてならないのです。勝負よりも参加することに意義がある、というイメージが浸透してしまっています。しかし、出場している選手はただ純粋にスポーツをしているだけなのです。オリンピックと同じ程度には汚いプレーもするだろうし、パラリンピックも真剣勝負の場なのだと、そういう意識がもっと定着してほしいものです。

そういう意味でも、障碍者を組み入れ(inclusion)ていこう,という流れから、統合(integration)の方向に大きく変わる時代だと思うのです。



(2017年4月の記事より、再掲載)

古本聡(こもとさとし)
昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。