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津久井やまゆり園事件から半年によせて~前編~

津久井やまゆり園事件から半年によせて  ~前編~

古本聡




障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名が殺害され、26名が重軽傷を負った事件から、この1月26日で半年が経ちました。日本で発生した殺傷事件としては戦後最凶だそうですが、他の大量殺傷事件と大きく違ったのは、犠牲者が全て、抵抗どころか自発的に意思疎通すらできない重度身体・知的障碍者だった点です。

改めて亡くなられた方々のご冥福と、心身に深い傷を負われた方々のご回復、安寧をお祈りしたいと思います。

ESC受講生の皆さんに障害当事者としてさせていただいているお話の中で私は、この事件について「重度障碍者にターゲットを絞った単独テロ」だと述べてきました。テロ(terrorism)の定義が、「一定の人間集団が信奉する政治的志向・思想に動機を見出した者が、対立する思想を持つ個人もしくは集団に対し、あるいは不特定多数の善意の人々を、その肉体的抹殺をも含めて、組織的にまたは単独で、計画的あるいは突発的に暴力を加えるために為す行為をいう」(出典: ロシア大百科事典2011版。本コラム執筆者訳)であるならば、また、ネット上での反応に見られるように、国民の一定割合があの容疑者の思考に同調するか、もしくは理解を示している状況がある限り、私はあの事件を、例え組織的犯行ではなくとも、テロ行為として捉えなくてはならない、と思っているのです。

他には、あの事件が、異質なものや経済的利益をもたらさないものを嫌悪し排斥しようするヘイトクライム(憎悪犯罪)だった、との見方もありますが、ヘイトクライムに分類するには、衆議院議長に宛てた容疑者の、犯行を予告する手紙に書かれていた主張、実行方法、実行後の供述などが障害者を標的にする点で一貫しており、思想性が強く感情性が弱いような気がします。ともあれ、事件から半年というこの時期に、私なりの考えを整理してみたいと思います。

津久井やまゆり園事件をはじめとして、世界各地で昨今頻発している、何の落度も罪もない人々を殺傷するテロ犯罪は、人権を土台とする民主主義社会の価値観に真っ向から挑戦するもので、突発的な殺傷事件よりもずっと罪が重いのが通常です。戦前ドイツが陥ったナチズムが現在でも組織的テロとして糾弾・否定され続けているのは、ユダヤ人や障がい者、その他ロマ(ジプシー)などの少数民族をシステマティックに弾圧し抹殺することを実行したからだけではなく、そのようなことをしようと指向すること自体が、民主主義に対し暴力的に挑みかかる行為だからです。そして、そのような行為は私たちの社会が持つ病的な暗部を反映していて、私たちはその病巣に気付き、それを取り除いていかなければならないからです。

「障がい者は不幸しか生み出さない。障がい者は生きていてもしょうがない」と容疑者は述べた、と報道などにより伝えられていますが、この人物がどの程度違法薬物の影響下にあったかは別として、この発言自体は、「障がい者はエイリアンだから殺さないといけない」といったような妄言には決して聞こえない。むしろ、つい20年前まで私たちの国には優生保護法という名の、優生思想をズバリ具現化したような法律があったこと、そして私自身が今まで60年間の障がい者人生の中で、同類の言葉をそれこそ何千、何万回も浴びせられてきたこと、さらには障がい者のみならず、生活保護受給者や公的援助を必要とする病を抱える人たちも、同様な罵倒の対象となっていることを思い起こせば、この社会が根っこの部分で遅々として進歩しておらず、ああいう主張をなんとなく許してしまう社会の闇の部分が顕わになり、ひょっとすると大きくなっているかもしれない、ということを再認識させられる思いです。この記事を読んでいただいている方たちにも、先述の容疑者による主張が、そうした闇に紛れ込んでいないとは断言できないはずです。自分たちの社会の中に、そうした考えを容認する動きが顕わになってきていたり、もしくは水面下であったとしても拡大していないか、省みて自らを厳しく再点検する必要があると思うのです。

ESC受講生を含み、日常私が接する人たちの中には、「障がい者を積極的に嫌ったり、街中でジロジロ見たり、迷惑に思ったりする人など、今の日本には殆どいないんじゃないか。ネット上でストレス発散のために極一部の人たちが酷い書き込みをしているだけ。それを悪い方にとらえてしまうのは、障がい者の心の中に思い込みというバリアがあるんじゃないか」、と言ってくる人がたまにいます。障がい者に対する差別感情や嫌悪・憎悪が自分たちとは無縁だと考えるのは、それはそれで実に純粋な方たちだな、と思いますし、ずっとこの先もその純粋さをその方たちが持ち続けられるような社会になってほしいとも、本当に願っています。その一方で、私の人の悪さを露呈するようですが、「純粋」という言葉は英語では、場合によってはナイーブ(naïve)とも訳され、人の性格を評する際に「心がきれい」という意味よりも、「素朴だが単純思考、世間知らず」のニュアンスの方が強いんだけどね、と私は思ってしまいます。もちろん、障がい者側にも、思い込みや心の捻じれがない、とは言いませんが・・・。

「障がい者は抹殺すべし」などということを考える人などいるはずがない、津久井やまゆり園事件の容疑者は異常な人間だから犯行に及んだのだ、と考えてしまうのは実に危ういと言わざるを得ません。あの事件が、自分たちとは無縁な、すごく稀な歪んだ心理の人物によるものだ、と思えば思うほど、類似する危険への備えがおろそかになってしまうでしょう。欧米の社会ではテロ犯罪や憎悪犯罪に対してどのように考え、対処するかという経験の積み重ねがある程度ありますが、日本社会では、こうした時どう対応すべきか、という方法論がまだ十分に確立していません。

やまゆり園事件の他にも世界各地で、宗教や政治的志向、民族主義、LGBTへの差別・嫌悪などに起因する、ヘイトクライム的な側面を持つテロ事件が数多く起こってきました。それら事件を受けて各国は、民主主義社会への重大な脅威として捉え、危機感を共有し、厳しく対応しています。こうした流れから見ても、「障害者は生きていても意味がない」という主張に基づいて、何の罪もない重度障害者を抹殺することにした今回の事件は、日本社会全体への攻撃だととらえるべきだと思えるのです。また、「よくわからない」と沈黙していてはならないとも思います。さらには、こうした差別意識、憎悪に対しては個々人が強く、そして敏感になり、誤った主張に対抗する力を身に着け、また全力で抵抗しなければなりません。

「障がい者を差別するなんて、今の世の中であり得ない」、「自分は差別などしない」と言ってのけるのは、たやすいことです。しかし、私たちのこの社会の中にそうした闇が潜んでいないと断言できるでしょうか。さらには、あの事件で犠牲になった障害者が、なぜ地域社会の中ではなく、あのような病院からも遠い、山中と言ってもいいくらいの地域に作られた施設に収容され生活していたのか、何故被害者の実名報道が阻止されたのか、そして容疑者がそこで働く中で「障害者は生きていても意味がない」という考えに至ったとすれば、日本という社会が障害者を本当の意味で不可欠な一員として認識していると言えるのか、についてしっかり、深く考えてみてほしいのです。

「勝ち組・負け組」のような軽い表現で実に残酷で深刻な社会状況を言い表す傾向があるように、今、生きる価値のある人間とそうでない人間がいる、という、古い時代からゴキブリのようにしぶとく存在し続けてきた価値観が、また勢いを増し、さらに浸透してきているのではないか、という危惧を強く感じます。

また、1980年台から勢いづいてきた新自由主義の最たる主張である「自己責任論」の蔓延に際して、障害者はどう捉えられているのでしょうか。「自己責任が果たせない存在」 = 「生きる価値がない存在」というような短絡的な思考、価値評価回路が容疑者の頭の中で形成されたのではないか、そして、なぜ、そんな価値観に容疑者が憑りつかれたのか、についても考えてみないといけないのかもしれません。児童、高齢者の虐待事件にも、共通する土壌が感じ取れるのですが、社会現象として社会の在り方を見つめなおす必要を強く感じる次第です。
 二度とこんな事件を許さないためにも・・・
 

(2017年2月の記事より、再掲載)

古本聡(こもとさとし)
昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。