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津久井やまゆり園事件から半年によせて  ~後編~

津久井やまゆり園事件から半年によせて  ~後編~

古本聡




前回のやまゆり園事件についての記事の中で私は、「あれは決して、薬物の影響で錯乱した特異な人物が起こした事件ではありません。それは、この事件の背景に、私たちの社会の奥底にある暗部で今も存在し続けている優生主義、という不気味な思想がはっきりと見えるからです」、さらには「障がい者のみならず、生活保護受給者や公的援助を必要とする病を抱える人たちも、(自己責任論を盾にした“生きていてもしょうがない、殺すべし”)のような罵倒の対象となっていることを思い起こせば、この社会が根っこの部分で遅々として進歩しておらず、ああいう主張をなんとなく許してしまう社会の闇の部分が顕わになり、ひょっとすると大きくなっているかもしれない、ということを再認識させられる」、また「1980年台から勢いづいてきた新自由主義の最たる主張である「自己責任論」の蔓延に際して、(障がい者、その他の社会的弱者が)〝自己責任が果たせない存在“ = ”生きる価値がない存在”、というような短絡的な思考、価値観回路が私たちおよび容疑者の頭の中で形成されたのではないか、省みて自らを厳しく再点検する必要があると思うのです」と述べました。

今回の記事ではさらに引き続き、「現代までしぶとく存在し続ける優生思想」ならびに、そういう思想を正当化させてしまう社会情勢と経済状況について触れてみたいと思います。

世界全体から見て、貧富の差が極端になっていることは、既にテレビや新聞などの報道により広く知られていることでしょう。世界の上位1%の最富裕層が、下位貧困層の50%、つまりは35億人が所有する富にほぼ等しいということが報告されています。人々が生み出す富を再分配するシステムが、機能的に限界を迎えているのです。

日本でもこの動向は、1990年台において労働力派遣業の自由度拡大により終身雇用、年功序列という安定的な雇用体制が崩壊してからは増々顕著になってきています。OECD(経済協力開発機構)の発表では、日本の相対的貧困率が2014年に、同機構加盟国中、第2位になってしまいました。これぞ経済グローバリズムの行き付く果て・・・。格差社会が確実に定着してきて、その結果として、子供は教育を受ける機会を縮小され、若者は夢や希望を持って働く機会を奪われ、そもそも子供を産み育てることさえも困難に、増々なっていくでしょう。

こうした社会・経済状況が進展する中で、私たち人間は、自分たちの足を引っ張っている要因を、広い視野で見るのではなく、身近な対象に見つけ出そうとするのです。そして、そのような排除されるべき対象は、大概の場合、自分たちより弱いもの、自分たちの役に立っていないものとなるのです。社会の仕組みそのものを疑ったり、変革しようと立ち上がったりすることまで、中々考えが至らないようです。

その関連において、私たちが今、最も注意を向け用心しなければならないのは、「血税を一方的に使うだけの人間は、この社会から消えても良い」という、亡霊のような優生思想が、一定の世論として市民権を得ることだ、と私は考えています。「優生思想」や「排除の論理」が、国民の中に浸透していき市民権を得ていく背景には、歴史的に見ても、必ずと言っていいほど経済的な苦境がある、と思うからです。

やや断定的すぎるかも知れませんが、はっきり言って、優生思想的な考えの持ち主は、どのような時代、体制、社会にも一定程度は存在するとも言えます。この日本もそうであるように。しかし、それが市民権を得るかどうかは、社会の環境に依拠するものなのです。

例えば、あの悪名高いT4作戦(別名「社会的不適合者抹殺計画」)という優生政策を、障がい者抹殺の実践に移したナチス・ドイツを考えてみましょう。1918年に第一次大戦で敗北したドイツはその後、巨額の賠償金を負わされて酷く困難な経済状況にありました。その状況からの脱却を望むドイツ国民のなかで、ナチスは次第に勢力を増していきました。先ずは、不幸の種だった障害者、病人、異人種に、そして次に周囲の国々に自分たちの苦境の原因を見出したのです。このように経済的苦境というのは、排除の論理に正当性を与えることがあるのです。

人間社会において、こうした事例はいくらでも観察できます。
イギリスのEU離脱も、国民投票という民主的な手続きによって決まったものですが、失業者の増加に業を煮やした市民による移民排斥運動がその背景にあると言われていますし、米国で、「アメリカ・ファースト」という名の「排除の論理」を声高に唱えるトランプ氏が大統領に選ばれたのも、経済の停滞と、それに大衆が苦しみ怯えたことが大きな要因になっていると考えられます。 しかしながら、これらの動きは、大きな視野で見ると「孤立」であり、「余裕」の喪失なのです。

「貧すれば鈍する」(貧乏に陥ると、世俗的な苦労が多いので、才知が鈍ったり品性が落ちたりする、という意味)という諺があります。一方、昭和の人気作家、太宰治はこれを「貧すれば貧す」と書いたそうです。これは誤用などではなく、「貧乏に陥ると、人は愚鈍になるばかりか貪欲(孤独に陥り、他者を思いやる余裕もなくし、欲望を露にしても憚らないよう)にもなる」、ということを伝えたかったのだ、と言われています。まさにその通りだ、と思います。経済苦や孤独は、他者への思いやりや他者との接点・関係を失うきっかけになるのでしょう。

これと同じことは、障がい者に関連する福祉という分野にも十分にあてはまるのです。
私たちの社会の「余裕のなさ」は、障がい者や自分より弱いもの、他者からの助けを求めなければならない人々へ配慮しようとする心を失わせる原因の一つになりうると思います。

私の身近な例で言えば、同じ電車でも昼間の空いている時間帯に車椅子の人、高齢者などが乗車しても、文句を言う乗客はおらず、また席の譲り合いも気持ちよく行われます。しかし、これが朝夕の通勤時間帯であればそうはいきません。うっかりそんな時間に乗車する羽目になろうものなら、「こんなラッシュ時に車椅子で乗ってくるなんて非常識だ。社会の迷惑になるな」と言わんばかりに、車椅子利用者に厳しい視線を向ける乗客もいるのが実態です。あの人たちの目がレーザー銃だったら、即焼き殺されるんだろうな、と思うことさえありました。心の余裕を失っている、としか言いようがありません。

時代は遡りますが、1970年台に横塚晃一氏が著した「母よ!殺すな」、という本の中で取り上げられている、母親による障害児殺しも同じ文脈で語ることが出来るでしょう。障害のある子どものいる家庭を孤立させれば、その経済的・精神的な重圧に耐えかねた母親が、自分の子どもを手にかけてしまう危険性は大いに高まります。そして苦悩する母親に対する世間の同情が殺人を“正当化”する風潮を作っていくのです。

現代ではどうでしょう。去年の2月末、「障害児産んだら人生終わったから、日本死ねっつーか死にたい」というブログ記事がアップされました(http://anond.hatelabo.jp/20160229202916)。是非とも読んでいただきたいと思う次第です。

優生思想に市民権を与えるもう一つの要因は、障がい者および高齢者などを隔離して孤立させてしまうことです。

やまゆり園事件の現場となった障害児(者)収容施設などの自己完結的な隔離施設は、障がい者らの社会との接点・関りを完全に失わせてしまいます。

かつて、障がい者が不便を感じずに暮らせるよう、人里離れた地域に「コロニー」と呼ばれる、障がい者の「隠遁所」を造ることこそが、最適な障がい者福祉だと見なされていたこともありました。障害を負っていないことが「正常」だと捉える社会にとっては、邪魔なものは隔離してしまう方が都合が良いのでしょう。

しかし、社会との接点や関りを奪われてしまうということは、見方を少し変えれば、そのような隔離施設に収容されている人たちの「社会的死滅」を意味することでもあります。それが今回の事件のように、いつ「税金の無駄遣い」という理由によって「生物学的死滅」にすり替えられてしまうか、わかりません。また、そういう残忍な思考が表に出やすい環境を作り出してしまっているのではないでしょうか。

また、この「社会的死滅」は、どんな人でも陥る可能性があるものです。
引きこもりや精神的疾患を抱える人、認知症患者など、日本では何らかのきっかけで決められたレールから一度外れると、社会との接点を失う可能性は非常に高いのです。

私たちの社会は精神的に脆弱です。太宰治が書いた「貧すれば貧す」の考え方のとおり、他者との関わりの中で自分の欲求を満たす余裕がなくなってきているように思えてなりません。だからこそ、この今の状況について、今一度述べますが、省みて自らを厳しく再点検する必要があると思うのです。

~前編はこちら
 

(2017年2月の記事より、再掲載)

古本聡(こもとさとし)
昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。