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38年間の通訳・翻訳という仕事を振り返って

38年間の通訳・翻訳という仕事を振り返って

古本聡



私は昨年、38年間掲げてきた翻訳会社の看板を下ろしました。そこで締めとして、そんなにも長い間私の本業だったロシア語通訳・翻訳について書いておきたいと思います。と言っても、内容的にはロシア語に限った事柄にはならない、と思うのですが。

一般的に見て、最近、日本語を流ちょうに話す外国人が増えたような気がします。それと同様に、外国語を話す日本人も確実に増えてきています。でも、この点について私は時折考えることがあります。それは、あの人たちの中で、どれくらいの外国語が上手いけれど、通訳者に全く向いていない人というのは、意外に多いのも事実です。しかも、ロシア語は大変難しい、とされる言語のひとつ。文字の学習から始めて10年経って、やっとビジネスレベルの入り口なんてこともあり得ます。英語に比べると、コストパフォーマンスの悪さはピカイチだったりもします。

  では、ロシア語を含め、通訳者・翻訳者として必要不可欠な資質とは、どんな事柄でしょうか。
これまでの経験を顧みると、下記の5項目に集約できるのでは、と思います。

  ① 母国語の水準が高い。
 ゲーテの有名な言葉に「外国語を知らない人間は、母国語をも知らない人間だ」というのがありますが、母国語は、外国語の習得、使用において非常に重要で、高度な表現を母国語で出来ない人は、それと同じ程度の外国語しか使えない、という顕著な傾向があります。外国語が上手くなりたいなら、まず自分の母国語を大事にし、レベルを上げる必要があるのです。

  ② 勉強が好き、または嫌いではない。
 これは若い時、非常に著名な、後に作家になられたロシア語通訳者の大先輩に言われた言葉です。通訳になりたいなら、勉強が好きな人でないとつとまりませんよ。この先生の仰ったことはまさに真実で、理系文系を問わず、学ぶことに果敢に取り組み続けるのが、通訳者・翻訳者の仕事なのです。

  ③ 他者への気遣い
 自分が、外国語が上手いことをアピールしたい人は、まず通訳・翻訳業に向いていません。しかも、相手に分かるように明解に伝えることに大きな注意を払い続ける必要があるので、最初に思いついた訳で伝わりにくい場合、大胆に分かりやすい表現に変更してしまう、という離れ業も時には必要だったりします。日本語では反語形を使うと非常にきつい響きになるので、敢えて使わない和訳をしたり、訳した表現によって、聞く側に余計な感情が催されないように、気を遣う必要もあったり…。翻訳の場合、相手が目の前にいないがゆえに、これはさらに難しい作業になります。

  ④ 過ちは素直に認める
 翻訳でも通訳でも、間違いを指摘されたら、それが真に間違いである以上は、素直に詫びて反省することが大事です。

  ⑤ 職業意識(プロ根性)を持てる
 今年の東京オリ・パラもそうですが、大規模なイベントでは、通訳はボランティアに任せることも珍しくなくなってしまいました。職業通訳者とボランティア通訳者との大きな違いの一つは、胃がキリキリと痛むような辛い通訳、嫌な通訳も割り切って出来るか否かにあるように思います。法廷での通訳業務、遺産相続問題を話し合う時の通訳など、本当に嫌な話しか出なかったり、通訳者が、何の落ち度もないのに罵られるような仕事も多々あります。報酬を頂く以上、仕事として全うする強い心は重要で、報酬を用意して下さる人の利益になるよう、精一杯努めなければならないのです。

  自分が介在したことで、日本側とロシア側に新しい素敵な関係が生まれた時、はたまた依頼者の口から「ありがとう」の一言が出たとき、やはり、この仕事をやってきて本当に良かったと思えます。その瞬間にすべてが報われ、身体も心もリセットされるような心境になるのです。翻訳・通訳に限らず、文章を書いたり、文学作品を発表したり、言葉を紡ぐ行為には、時としてその後、思いもよらない展開が待っていることがありますが、それがまたこういう職業の醍醐味だとも言えるでしょう。

  「言葉はやはり、これからも大事にしていきたい。」。これが、去年会社を整理して最後に心に浮かんだ想いです。

ところで、思い起こしてみても、どのクライアント(お客様)も実に我儘だったなぁ、としみじみと思います。「安く」、「早く」、「自分に都合よく」。これがクライアントの基本的な要求です。そう、私がこの4年間見聞きしてきた介護業界の一部顧客にそっくりなのです。何故あんなに我儘なのでしょう。私なりに考えてきた理由を述べると、外国語業界では「翻訳される文書の内容、あるいは通訳される話の内容に対する主導権が翻訳者・通訳者側に握られているから」ではないかと思うのです。少なくとも、外国語を理解し操ることに関してはクライアントが長けていることは稀です。まさにその点にクライアントはコンプレックスを感じてしまうようです。また、自分で確認できないがゆえに、訳文の出来不出来あるいは、自分が望んでいるような内容に仕上げてくれるか、について過剰に心配してしまうのでしょう。そして、それが根拠のないクレームや、翻訳者・通訳者に浴びせられる罵詈雑言につながっていくわけです。

こういう、精神的な健康には非常に悪い業界で、私は38年間も生きてきました。その間に自分の中に蓄積されたのは翻訳・通訳実務のノウハウだけではなく、そうしたクライアントとの衝突回避術、問題分析・解決力もまた経験として残りました。

今後は、これをフルに活用していきたいと考える次第です。

古本聡(こもとさとし)
昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。20年1月より土屋訪問介護事業所の利用者ホットライン窓口を担当。