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『重度訪問介護で平和をつくる  part 9』~人類として私たちは生き延びれるか~

『重度訪問介護で平和をつくる  part 9』~人類として私たちは生き延びれるか~

安積遊歩



始めに
何度も書いているが、私は重度訪問介護の仕事は人類始まって以来の仕事だと思っている。
何故そう思うのかを、新年ということもあり書いてみようと思う。

この年の元旦を、私はニュージーランドで迎えた。
朝から空が異様なオレンジ色で、朝焼けというには気味が悪いなと思っていたが、昼になっても夕方になってもその色は変わらない。
ニュージーランドの夏の日没は夜9時半くらいだったので、流石にそれくらいには暗闇と同時にオレンジ色は収まっていった。
翌朝、元日の空の異様さがオーストラリアの山火事の影響であるというニュースが届いた。
ニュージーランドにいると環境問題について、日本にいるときの数倍ほどの危機感を共有できる仲間たちが周りにいた。
この事と重度訪問介護の大切さをどう結びつけられるのか、早速始めよう。

1 環境問題と重度訪問介護
この2つに共通するものは、命である。
環境問題の中にあるのは生き物全ての命であり、重度訪問介護の中にあるのは特に重い障碍を持った人たちの命である。
ところで、全ての生き物は自然の中にあり、太陽と大地と水からなり、先住民の人々は自然界そのものに神を見出し、それとともに生きてきた。
自然はあまりにも偉大で、その法則に従う本能を全ての生き物は駆使しながら、それぞれが種を絶やさず生きてきた。
そんな中、多種多様な生き物を殺戮に追い込む人類という種が、今、地上に君臨し続けている。

獰猛で残虐と言われる肉食動物でさえ、同じ種族で争って食い合ったりはしない。
虎が虎を、ライオンがライオンを襲って互いを餌にするなどという話は聞いたことない。まして草食動物は、血で血を争うということなど全くあり得ない。
ところが人類は、言葉を書き記すという文化を持ったこともあり、その知性を自分とは遠い人たちにまで、分かち合うことができるようになった。ただ、それと同時に、種を保存するという本能に牙を剥くという形で所有欲を肥大化させてきた。

食べ物、領土、子供、、、特に男性は、男こそ人類であるかと言わんばかりに、つまり、厳しい自然界を生き延びるためもあっただろうが、暴力と争いを繰り返してきた。(ただし、厳しい自然界の中でも、人間同士でそれほど争うことなく数千年から何万年、種を継承した文化もある。例えば、豪雪の中で生き延びてきたアイヌの人達や砂漠で暮らしたアボリジニの人達、彼らの文化に学び、彼等との共生もまた新たな歴史を作っていくための大切な観点である。)

一方、種の保存をその身体に担っている女性は絶えず、その身体からの声を聞かざる負えない時期を持っているが故に、暴力に掴まる事は無く、分かち合い助け合うという知性で生き延びてきた。
どちらの性も、文化や文明を持ちその知性を使いここまで生き延びてきたことには、まず敬意を払いたいと想う。

しかし、本能やその知性にないはずの欲望(強欲ともいうべき)に捉まって、今人類は他の生物の命をも壮絶に巻き込んでの危機的状況に瀕している。
始めにも書いたオーストラリアの山火事で5億とも10億ともいわれるコアラやカンガルー、その他の生物が絶滅し続けている。世界のあちこちで地震や干ばつなどの天災が起きる度に、それに加えて人災による環境破壊が問われている。化石燃料や様々な資源への依存は、それを巡っての争い、戦争を絶えさせない。
また、様々な動植物を徹底的に利用する人類の生活のあり方は、動植物全体の命を大切にしようという視点を殆ど失ってしまっている。

多くの家畜が工場畜産で残酷に「肉」という商品にされ、植物もまた遺伝子組み換えやゲノム編集等で、本来の命とは別物に変化させられ続けている。(ドミニオンやバンダナシバさんの映画等を是非ご覧いただきたい。YouTube にあります。)
ところで、こうした過酷な動植物への命への対応とは一線を画すように、人類は自分たちと同じ種でありながら異形を放つものたち、つまり障碍者に対して、ともに生きよう、対等であろう、というチャレンジをし続けてきてもいる。
それは、福祉とも呼ばれ、そのチャレンジの極みに日本には重度訪問介護が登場した。

2 家族と重度訪問介護
ところで、家族という有り様は、社会を反映して作られる。
近代社会の家族と障碍を持つ人の有り様は、沈黙する自然に対して征服と支配を繰り返してきた人類と同じで、沈黙しかない障碍を持つ人に、良くて排除と隔離で対してきた。日本の場合、間引きや無理心中という名の殺人も頻繁に行われてきた。
障碍を持つ人の命を家族にのみ任せることの愚、そして残酷さ。
それは、やまゆり園事件で象徴されるように、助け合って、分かち合って、命を紡ぎ合うという人間の知性と可能性に対する甚大な侵害だ。侵害どころか、自然界と人類との関係を模倣するかのように、沈黙する障碍を持つ人の声を無視し、抹殺してきた歴史、それを正しいとする優生思想を更に更に蔓延させる。

ところで私は、優生思想こそが環境問題を増長させ、全ての命を破壊に追い込むものであると考えている。
その優生思想を日常の中で問い続けるために、重度訪問介護はある。
家族でない人が重い障碍を持つ人の介助に関わることによって、クライアントの命、そして自分の命とは何かを考える。
考える中で1人でやり続けることは、自分の命を大切にすることにはならないと気付き、更に助けを求める必要がある事を知る。
命を全く大切に思えないという程に介助を全面的にする様に、と追い詰められれば、人は知性も愛も失わさせられる。

それは結局、障碍を持つ人に沈黙を強いる。
或いは、最初から声を上げれない、と障碍者は決めつけられている。
だからこそ、重度訪問介助という仕事は、家族と当事者の苦悩を他者が分かち合う事で「命の対等性」というバランスを、家族という小さな社会の中に作り出すことの出来る、人類初の仕事なのだ。
重度訪問介護の利用者は、自分の自由を求めて介助者の自由を拘束し、自由意志をコントロールすることでは、その関係性は早々の破滅を見ることを知る。
また、介助する側も経済的自由を求めて関わりだけではなし得ない、様々な相克に直面することになる。

そしてその相克を越えるために考え続け、葛藤から逃げないという勇気が必要となる。
この仕事を命の対等性の観点に立ってやればやる程、自分の生活と命がどうあれば良いのかがよく見えてくる。英語で、命と生活と人生は“life”という1語で表される。
“my life”という言葉は、私の命、私の生活、私の人生と、日本語ではその文脈によって様々に訳される。重い障碍を持つ人の命、生活、人生をどこまで自分のそれと重ね合わせることができるか。その関わりの中から、命の多様性に気付き想いを馳せる。そして目の前の利用者を通して地球の様々な命の継続を、考え願い行動する力が起きてくるに違いない。

利用者もまた自分の自由の確保に努力する事を通して、他の命への尊重を学んでいく。
全ての命が破滅に向かいかねないマクロな環境の中で、まず互いの命をどう大切にできるのかというミクロな関係に自分を置く事、これこそが、平和に向けた人類初の大切な仕事であるという由縁である。

終わりに
優生思想は大量生産やスピード、分類による効率化などを徹底的によしとして進んできた。
しかし介助の場面は、そうしたものとはまるで無縁の世界である。
私が行なっている、ピアカウンセリングのグループワークの中に身を置くと、コミュニケーションの有り様も個々人余りに多様なので、時間の流れがゆっくりとなり1人1人の顔が本当によく見えてくる。

重度訪問介護で障碍を持つ人に出会う人たちは、今までの自分の人生とは違うリズムで呼吸をし、食べ、動き、眠る人たちに気付く。
それは障碍を持つ利用者側も同じで、全く違うリズムの中で生きていた人たちとの関わりの中で、共に生きるチャレンジが始まるのだ。
人類初の仕事に、多くの人が来てくれれば来てくれる程、平和な世界の広がりは必然となっていく。今年も平和の具体化、つまり多様な人々との沢山の関わりを1人1人が特に重度訪問というツールを使って行動する年にして欲しい、と切に願う。


【略歴】
1956年、福島県福島市生まれ。生まれつき骨が弱いという特徴をもつ。22歳で親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介。障害者の自立生活運動をはじめ、様々な分野で当事者として発信を行なっている。
2019年7月、NHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。