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障害者と健常者の境はどこに?

障害者と健常者の境はどこに?

古本聡



ユースタイルカレッジの重度訪問介護従業者養成研修統合課程の実習で障害当事者として講話を担当させてもらって、もうすぐ4年になる。その間、相模原市の津久井やまゆり園で発生した障害者大量殺傷事件などもあり、私は自分を含め、障害者のこと、そして障害とは何なのか、ということについて深く考える機会になった。

日本には今、約800万人の障害者がいると言われている。これは、身体障害、知的障害、精神障害のいずれか、あるいは重複する障害を持つ国民の合計人数であり、全人口に対する割合は約6%となる。人口の約6%というこの数字、他の国々でも概ね6%~10%で、特に多くも少なくもないように見えるかもしれない。が、しかし、少しだけ違った、と言うか真っ当な視点から見ると、過小だと言うことが明確に分かる。と言うのも、この800万と言う数字は、何らかの公的な基準にあてはまる人であり、それにより各種社会制度、福祉制度の恩恵にあずかれる人の数だからだ。私もその1人である。

それでは、この国には一体どれくらいの数の潜在的な障害者がいるのだろうか。2倍だろうか、3倍だろうか。そしてそれを知るにはどうすればいいのだろうか。そもそも障害の定義をどのようにするかによって、その人数、総人口比は大きく異なるだろう。その定義については、専門的に調査していらっしゃる研究者の皆さんにお任せすることにして、私なりに障害者について考えてみようと思う。

私は週に3~4日程度割と遠くまで外出するので、大変よく公共交通機関を利用する。その際、親切にされる機会が圧倒的に多いが、時にはエレベーターに並んでいて、車椅子利用者優先の表示が大きく掲げられていても、そしてそのルールを理解していても、私の真ん前に割り込む人はいるものだ。また、すれ違いざまに思いっきりバックや傘を頭や腕に故意に当てられたり、満員電車の中で、車椅子の後ろ側についている降り畳み式転倒防止用バーが何者かによってキッチリ畳まれていたり、という経験などもしている。

私はこういう軽い気持ちで悪質な行為をしてしまう人たちに出会うたび、心の中で、「人格としての障害を持っている人」だな、とつい呟いてしまうのだ。そう、あのやまゆり園事件を起こした植松聖被告のように、である。認定はされていなくても、実際は社会生活に支障をきたしかねない、同様な障害を持った人は、実は相当に多いのではないだろうか。植松被告も、責任能力はあるとされてはいるものの、精神鑑定で障害名が付けられた。が、しかし、彼も、障害名が付けられるまでは「健常者」として育ち、生きてきたのである。しかも、彼自身が自分は健常だと思い込んでいた、という点が最も問題視すべきことだろうと思う。

そう、優生思想のプロパガンダに心の芯部まで冒されてしまい、自分こそは健常者だと思い込んでしまっている人は、想像するよりも遥かに多くいると言わざるを得ない。一人一人がもっと自分自身に目を向けてほしい、と私は願っている。周囲の誰かに優越感を持って接してはいないか、強い劣等感を感じることないか、そういう優劣関係でしか物事を判断できなくなってはいないか、人間は、そういう事柄を常に自分で検証しなければ、いつのまにか心が歪になっていくのでは、と私は思うのだ。

一方、そもそも欠点のない人など存在しない。が、一人一人が持っているその欠点または個性といえるものは、もしかすると障害とグラデーションのように繋がっているのではないだろうか。そういう意味では、「健常者」なるものはイリュージョンでしかなく、もしこの概念を社会全体が共有しているのならば、それは単なる共同幻想でしかありえない。

障害者と健常者の境とはどこにあるのだろうか、健常者とはいったいどんな人を指すのか。最近、共生社会とよく耳にする。共生とは、そもそも異質なもの同士が一緒に生きられるということで、もちろん一人ひとり違うのであるから、そういう意味でなら共生は当然であり、必然である。しかし、共生の中には優れた者、強い者が弱者を一緒に包括して暮らすことを指してはいないだろうか。確かにそういう面は私も否定しない。しかし、見方を大きく変えてみると誰もがほとんど障害者かもしれないのである。わざわざ共生社会と言うことによって差別や区別を生んではいまいか?隣人は皆、同胞であるかも。



古本聡(こもとさとし)
昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。