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ロシアで見た生と死~無言の朝食~

ロシアで見た生と死~無言の朝食~

古本聡




私が育ったロシアという国では、家族の誰かが亡くなった時、遺族が他人に御馳走を振舞い弔いをする風習が大昔からあった。亡くなった日から数えて9日目と40日目にこれを執り行うのだが、その際、ご馳走を振舞う相手は、世の中で最も不幸だとされる人々でなければならないのだ。不幸な人を満腹にすればするほど、死者は喜び、そして遺族たちも神の慈悲により功徳を積むことになる、ということらしい。一方、食事を恵んで貰った者は、食べている間、周囲と言葉を交わしてはならず、特に礼を言ってはならない、また笑みを浮かべてはならない、というルールだそうだ。

あの国の人々は信心深い。神の慈悲に縋り、そしてその力を恐れることに関しては世界でも類を見ないくらい、と言っても過言ではない。社会主義・共産主義時代に宗教は激しく弾圧され、信仰心は徹底的な思想教育によって弱まったはずだ、と考える方もおられるが、それはあまりにも一面的なものの見方だろう。庶民は、国家体制や政治思想など関係なく庶民であり続け、宗教観を含み、その生活様式はあまり大きく変わらないのが現実なのだ。そして、庶民の生活が貧しければ貧しいほどその傾向は強くなる。

ロシアの信仰心の中では、神は、自分への畏敬の念と恐れを民が忘れぬように、その見せしめとして醜い容姿、弱い肉体、そして劣等な魂を一定の人々に敢えて与える。それが障害者なのだ。そして、健康な身体と精神を与えられた者たちが、自分たちの生活がいかに苦しいものであっても、障害者よりは不幸ではない、という思いがロシア庶民の心の底にはあるようだ。社会主義ロシアの成立後にそこに付加されたのが、社会・経済の発展、社会主義・共産主義国家の建設に貢献しない者は排除すべし、と言う優生主義的なイデオロギーだ。

さて、話を冒頭の40日忌のことに戻すと、ああいう風習の中で、障害者は施しを与えるのに格好の相手なのだ。何せ、障害者より不幸な存在などいないのだから・・・。

これからここに記すのは、私が7歳の頃、モスクワ市内から50キロほど離れた場所にあった障害児収容施設に居たときのことだ。

ある冬の朝、洗面所から自分の居住室に戻ると、大きな共用テーブルに朝食が配膳されていた。その内容を見て私は驚いた。普段の朝食と言えば、コップ一杯のケフィール(ロシア独特の乳酸飲料)、バターをサッと塗った黒パン一切れという、質素の上にも質素なものだったのだが、その日のメニューは、お皿に山盛りのマッシュドポテト、中太ソーセージ2本ずつ、胡瓜のピクルス、キセーリと呼ばれるラズベリー風味の甘い葛湯、レーズン入りのカーシャ(穀物粥)、ブリヌィ(厚めのクレープ)などが並べられていた。食器もいつもとは違っていて、洗浄が足りずヌルヌルが取れていない歪んだアルマイト皿や錆の浮いたホーローカップではなく、家庭で使われるような陶器だった。あまりの嬉しさに思わず大声を上げそうになった時、隣ベッドのコーリャが私を制止した。

「外国人で異教徒のお前には分からないだろうが、こういう食事が出された時は声を出さず、笑ってもいけない。黙って食えるだけ食って、その後は、この食事を持ってきてくれた人に絶対に礼を言ってはならない」。
今でも覚えているが、2歳年上とは言え、あの時のコーリャの口調は妙に大人びていた。

私の居室は5人部屋だったが、全員が揃うや否や、普段は開け放たれている扉がピッタリと閉じられ、無言の朝食が始まった。誰もが餓鬼の形相で喰らった。私も、コーリャにジェスチャーで急かされながら、腹がはちきれそうになるまで懸命に食べ物を口に頬張り、胃袋に押し込んだ。30分くらいが経って各自の食器が空になったところで、介助員のイリーナおばさんが急ぎ足で部屋に来て、これまたすごい速さで食器をまとめて出て行った。部屋の全員が沈黙し無表情でその様子を見守った。このイリーナおばさんは普段、収容児のおむつ替え、ベッドのシーツ交換、食事介助などをする係で、施設から3キロほどのところにあったコルホーズ(集団農場)に住んでいる、ということだった。年齢は、40歳は過ぎていたと思う。

コーリャの話では、イリーナおばさんの一人息子が酔っぱらった挙句、氷点下25度の寒空の下、外で眠り込んでしまい、40日程前に肺炎をこじらせて亡くなったとか。そしてあの朝の豪華な朝食となったわけだ。今考えるに、慢性的に食料不足だった当時、あの国であんな大御馳走を用意するには、大変な苦労だったろうし、多額の費用もかかっただろう。

イリーナおばさんは、少なくとも私の居室の5人に対しては普段から優しく接してくれた。他の介助員だと、私たち収容児は、オネショなどでシーツやパジャマを汚してしまうと、素っ裸で床に転がされ、介助員の気が済むまで放置される、あるいは、オネショを防ぐためと言って日中一切水分を取らせてもらえないなど、今でいうところの虐待行為のターゲットになっていたのだが、イリーナおばさんはそういうことを一度もしたことがなかった。

これは数日後にコーリャから教えてもらったことだが、あの朝、ご馳走にありつけたのは私たち5人だけだった。しかも、食べ物を家から持ってきて収容児に食べさせるのは、規則違反だったそうだ。施設長に知られたら解雇もしくは給与返納になりかねないことだったらしい。そこで合点がいった。何故あの時に限って部屋の扉が閉じられたのか、何故食器が普段のものとは違っていたのか、そして何故イリーナおばさんがあんなに急いで後片付けをしたのか・・・。

コーリャはさらにこんな話も聞かせてくれた。
『五体満足に生まれた、いわゆる普通の人が死ぬと、その人が生前にした善行を増やすために、遺族たちが僕らのような、神から試練を課されたカタワモンに美味いものを腹一杯食べさせたり、暖かい服や、時にはお金を恵んでくれたりもする。そうやって死んだ人が神からの罰を免れて天国に行きやすくするんだ。それに、遺族自身が功徳を積む、つまり生きてる間に善行を増やすことになるらしいんだよ。その時、見返りを求めちゃいけない。だから、遺族に「ありがとう」って言っちゃいけないんだ。逆に、カタワモンが死んでも、そんなこと、誰もしてくれない。僕たちは死ねば天国に行ける、ってはじめから決まってるらしい。死ねば聖人の仲間入りができるんだから、早く死んだ方が得だって言われる。でもな、僕は生きてる方が得だと思ってる。死んじゃったら、時々美味しいものも食べられなくなっちゃうしね。第一、美味しいものにありつけて、それをたらふく食ったときの喜びは、生きてればこそ感じられるもんだろ。生きてれば、生きてさえいれば、いつか何か良いことが巡ってくると思ってる。生きたい・・・。死は無だよ。』

その約1年後、コーリャは、湾曲した脊椎を伸ばすための手術の途中で死んだ。彼の言った通り、彼の死を悼む者は、あの施設で会った大人の中には誰一人としていなかった。彼がいなくなった後の数日間、私は空っぽになった隣ベッドをボーっと眺めていたような気がする。コーリャの声が聞こえてはこないかと思いながら。
そして、「生きてさえいれば、いつか何か良いことが巡ってくる。死は無である」。これが私の生と死の定義になった。





【略歴】 昭和32年生まれ、脳性麻痺1種1級、6歳からの5年間余、旧ソ連の障がい児収容施設での生活を経験した最初で最後の日本人。早稲田大学商学部卒、大学院生だった25歳より英語とロシア語翻訳会社を経営。16年4月よりユースタイルカレッジにて障がい当事者としての講話を担当。