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動かない体への想像力2〜生まれた時からの障がいと、中途の障がいについて思うこと〜

動かない体への想像力2〜生まれた時からの障がいと、中途の障がいについて思うこと〜

安積遊歩



もし、自分の体が全く動かなくなる事があると子供の頃から知っていたら、私たちはどういう世界を作れるのだろう。中途障害を持つ人の悲しみと嘆きを聞くたびに、私はその事を考える。

私自身は生まれた時から骨折を繰り返す柔らかい骨の体を生きてきた。柔らかい骨を強くする、ロッドという棒を入れたり、曲がった骨を真っ直ぐにするという手術を何度もされた。しかし遂に、13歳の時には西洋医学による整形外科的な様々な治療に愛想をつかした。骨折したら、じっとして骨が自分の力で治ってくれるはずと、それ以来自ら病院に行くことは一切辞めた。辞めたついでに様々な自然民間療法の本を読み、自己治癒力、自然治癒力という力が1人1人の体にある事を学んだ。

東洋医学はそれを基盤に置いた医学である事を知り、父親が関節炎になった時には、膝にニンニク灸を毎晩して、半年後には痛みが取れた。家族にホームドクターと呼ばれたりもした。(笑)
体を作っている大気と太陽光と水と食べ物、これに気をつければ、あとは自己、自然治癒力が発動してくれると10代には直感で確信した。しかしその直感を圧倒的に妨げるような添加物が使用開始となった昭和30年代。小学校4年の夏休みの自由課題は、危険な食べ物というテーマで、レポートを作成した。妹の抜けた乳歯をコカコーラに入れて、3〜5日間で完全に溶けるのを見て、大人社会の大嘘、コマーシャルの恐ろしさを認識した。

時代は高度経済成長真っ只中だったから、洗濯機の便利さに母親が喜ぶそばで、田んぼの間を流れていた綺麗な川が泡だらけになり、フナもドジョウも居なくなっていくのを不安と共に見つめた。

20歳の時にはお肉と白砂糖の大量摂取がいかに良くないかの情報を入手。教えてくれた友人はリウマチで、食事療法で痛みから劇的に自由になっていた。だから、好きだった肉もケーキも少しずつ辞め、ベジタリアンを志した。
今は家の中では完全に動物性のものを食べないビーガンライフ(外に出る時にはたまに難しいが)。地球温暖化や家畜達への残酷な有り様を本当に知ったら、人の消費行動も変わっていくに違いない。世界中が直面している破滅的な環境破壊も少しは遠ざけられるだろう。ビーガンライフを学べば学ぶほど、ビーガンライフを人に伝えることの大切さを感じている(YouTube 『ドミニオン』『earth ring 』をみてほしい)。

同じ体質を持って生まれてきた娘には、躊躇無く現代西洋医学の「治療」はしないと決め、手術やギブスを全くしなかった。

ただ、医療に全く近づかないというのではその中にいる人々と出会えない。それは非常に勿体ないので、サポーターとしての整形外科医は一時求めてもみた。自己治癒力で彼女の折れた大腿骨がきちんとついているかどうかの確認がしたかった。だから骨折後、2ヶ月くらい経ってから1枚だけレントゲンを撮るという事を5回くらいやってみた。しかし、娘の一言でそれも終わった。
「私が治っていると言うのだから、もうレントゲンは撮らなくてもいい」と言うのだった。私は問答無用に生まれてから13歳まで2千枚前後のレントゲンを撮られていたと母から聞いていたので、彼女の言いようが清々しく響いた。サポーターとしての医者探しもそれで終焉。

ただ、娘が生まれた時に、出産をプロとする人間として素晴らしい女医さんと出会えた。彼女は今、都立病院を辞め、女性医師や看護師の人権を大切にし働きやすい職場づくりをする為に、南八王子にグリーンゲーブルスという病院を開設。
この病院には、彼女の夢と、女性差別を変えていこうという意志が一杯に詰まっている。
彼女との出会いは、最高のサポーターとして娘にとっても私にとっても一生の喜びであるので、これからもさらに関わりを育てていきたい。

ところで、中途障がい者と呼ばれる人たちと私たちの違いを私の観点からさらに見ていこう。私たちといってもこの場合、先天性障害を持つ仲間とか幼い時からの仲間全般という事ではなく、あくまでも自然治癒力や自己治癒力に依拠しようという私たち母娘だけの事ではあるが。
私達の体も突然動けなくなる事が度々ある。それは骨折が起こるからで、痛みによって1、2ヶ月は全く動きたくなくなる。昔は痛みの辛さもさることながら、動けないことの余りの辛さ故に、ギブスが本当に嫌だった。

50年前のギブスは恐ろしいほどに残酷で、特にギブスを切るときの電気鋸が身体の脇を通って行く恐怖はすさまじく、全ての考える力を奪う。だから、「絶対に痛いことはしないから大丈夫」と、その電鋸を使う医者から何度言われてもそんなアドバイスは微塵も役に立たなかった。
今考えると、鋸を扱うのは男性の医者ばかりだった。
電気鋸の爆音は、戦場における爆音にも似ていて、私にとっては医療現場は常に戦場だったといっても過言では無かった。

骨を真っ直ぐにする事が私の体にとって大事なことと医者がいくら言い募っても、10代のときには、その欺瞞に心深く憤っていた。だから2年半で、病院施設と養護学校が一緒になった場所から決別した。園長への直訴や、その後の担当看護師からの説教など、13歳の私がたてた戦略とそこへの対応は、その後の障がい者運動にも様々な学びとなった。

幼いころからの、或いは先天性の障がいを持つ人への医療の現場、特に整形外科の分野は体の個性の違いを尊重しないところから始まっている。
障がいのない人の体があくまでも基準で、それに合わせて手術や機能訓練が考えられてきた。
私と同じ障害で、全く曲がった骨に手術を施されなかった人は、私が知っている限り、80代の人と私の娘だけだ。曲がりやすい骨が、可哀想であるからとかで、何度も何度も手術された人が圧倒的だ。
また、脳性麻痺の友人達にも緊張を軽減するという手術で、余計歩けなくなったり痛みが増したりしている人も多い。
東大の当事者で教授の熊谷伸一郎さんは、脳性麻痺で激しい機能訓練で2度骨折したという。しかし、その後医療は脳性麻痺という障がいに対しては、「それまでの在り方には敗北宣言を出している」とこの間の対談で話してくれた。

しかし、私はリハビリ界が敗北をある面認めていても、地方に住む脳性麻痺者には、自分の体を肯定できず、様々な福祉サービスを自ら排除している人がいる事も、残念ながら知っている。

障がいを持つ人の解放運動、自立生活運動はこうしたプロセスの中で、動けない身体に対する絶望よりも、動けないままで人生や生活を楽しむ方へと段々にシフトしてきた。そして、動けない身体を持つ人の中でも、呼吸器や胃ろうなどの医療的ケアを必要とする人にも、少しずつ介助サービスが拡大されてきている。

ところで、幼い時からの障がいを持つ人にとっては、まず人前に出るということの意識が中途の障がいを持つ人と圧倒的に違う。その存在に対する否定感、迷惑であるとか、役立たずとか、幼いころから言われ続けてきた差別に屈して、施設収容を受け入れざるをえなかった幼少期からの障がいを持つ私たち。それでも外に出ようとすることは、排除、隔離収容されてきた歴史に「この身体のままで何が悪い」と開き直り、抗うということだった。

しかし、中途の重い障がいを持つ人にとっては、その「外に出られない」という意識は、多くは障がいに対する介助のなさ故に起きることがほとんどだ。彼らの思いは開き直り抗ってでも外に出たいという意識より、目の前にある事業所への不満や怒りに集約されてしまう。問題は、それを保障しない社会のあり方、つまり政治や制度にあるにも関わらず、である。

金銭授受を仕事の最重要課題と考えるならば、介助の仕事がこれほどに広がることはなかった。介助の仕事は「やりがい搾取」とか「感情労働」「低賃金」とか言われながら、それでもここまで広がっているのは、この仕事を通して介助することが常に他人事ではなく自分ごとなのだという想像力を広げられるからだ。この仕事に対してその内容の重要性から正当な対価を保障させるためにも、動かない身体に対する想像力を教育の中にも医療の中にもきちんとプログラムとして入れ込みたい。

差別は、女性差別も人種差別も、子供への差別も本当に厳しい。もちろん障がい者差別も凄まじいが、それでも、いつでも障がいを持てる変化する身体の自分であることに気づけば、介助という関わりは、将来への希望あるスタートだ。


【略歴】
1956年、福島県福島市生まれ。生まれつき骨が弱いという特徴をもつ。22歳で親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介。障害者の自立生活運動をはじめ、様々な分野で当事者として発信を行なっている。
2019年7月、NHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。