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ダーウィンの進化論と優生思想、そして多様性~生命と社会は多様であるからこそ維持できる~

ダーウィンの進化論と優生思想、そして多様性~生命と社会は多様であるからこそ維持できる~

古本聡



C.ダ―ヴィンは偉大な生物学者であることは誰もが知っている事実。私もその点に異論はない。
その一方で、彼の学説は、同時代以降の社会学者や政治家、政治に影響力を持つ資本家などにとっては、産業社会の発展に起因して人間社会に現れた「富の一極集中」、「搾取」、「階級形成によるあらゆる格差」などの矛盾に満ち、人間性に欠いた社会発展動向を説明し、その正当性を広く納得させるには、実に利用しやすい道具だったのだろう。ダ―ヴィンが提起した「進化」、「繁栄」、「淘汰」、「絶滅」といった言葉およびそれらの概念は、社会学者らによって「適者生存」、「優勝劣敗」、「選別・選択」、「優生劣滅」といったものに変換されていった。そのような方向への動きの発端を作ったのが、ダ―ヴィンの従兄に当たるF.ゴルトンという人類学者・遺伝学者だった。ゴルトンは、人為選択(人為淘汰)によって民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やそうという優生学を提唱したのだ。そして、これこそが人種差別・障害者差別の正当化に使われた強力なウェポンである。

私は若い頃から、優生主義(思想)の反意語は「多様性」だと考えてきた。
色んな意味での多様性がある。生物学的、文化的、思想的、宗教的、人種的・・・etcな多様性。これらすべてに優越やら可否、正誤のような評価を付ける必要性は、一部の例外的状況を除いて、あまりないのでは、と考えてきた。

さて、ダ―ヴィンが生物学者だったので、話を生物学に関連する生物学的多様性の危機という問題に当てはめてみたいと思う。

生物学的多様性の危機というと、日本で言えばメダカやドジョウが消えた田んぼか、どこか南国の蝶や鳥が絶滅することのようにイメージするかもしれない。でも、生物学的多様性の危機とはまさに私たち一人ひとりの体の中で起きているプロセスなのだ。

人間の体内には、100兆を超える数の微生物が共生していると言われている。その中で、遺伝子解析技術の発達のおかげで、最近、その数だけは把握できるようになってきたが、どんな微生物が、どんな生態で棲息しているのかは、まだまだ解明されていない。そして、解明される前に消滅していっている可能性の方が高い。例えば、私たち、日本人のように文明に頼り切った生活を送る先進国の人々と、アマゾンで自給自足、採取生活をおくる先住民族とを比較すると、腸内細菌の種類の数において私たちの方が極端に少ない、ということが分かっている。現代人、特に先進諸国の人々は、体内の生物学的多様性を失い、その結果として免疫を弱め、さまざまな感染症、慢性疾患を増やしているのかもしれない。

人間の体内がどこかの国の、例えば日本の国土だと仮定して、明日にはその国土に住む人たち(微生物)が死滅するだろうと、公に発表されたとする。すると、誰でもなんとか自分だけは生き残りたいと思うだろう。あるいは自分の家族、愛する者たちだけは守りたいと。では、どうすればそれは可能になるのか? いや、自分、もしくは自分たちだけに救済する範囲が留まる限り、それは達成できない。なぜなら、体内の生物学的多様性の構成要員は決して互いから孤立して棲息しているものではないからだ。

全ては繋がっているのだ。人体内の生物学的多様性は、人間が毎日摂取する食べ物によって支えられ、維持されているが、その食べ物にも生物学的多様性が必要であり、食べ物になってくれるその生物達を支える生命達もまた同様な多様性を必要とするのだ。そして、そうやって全ての生態系に繋がっていく。だからこそ、「誰一人取り残さない」(No One Will Be Left Behind)という、持続可能な社会を目指す理念を具体化した、SDGs(持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)」の原則は、体内においても、また人間社会においても、単に偽善的で、キレイ事のスローガンでは決してないし、またそうであってはならないのだ。

こうした危機に対して、自分たちだけが、先見の明を持ち意識の高い人たちだけが救われればいい、というような主張がしばしば聞かれる。確かに現実の危機を認識する人や、それを何としても変えなければ、などと思う人はそう多くはないだろう。最初は僅かしかいない。社会全体のシステム、生態系に関わることを変えていこうというのは、実に気が遠くなるほど大掛かりな構想かもしれない。しかし、そのような一部の人たちだけが、または自分たちだけが救われればいい、という考え方は大きな間違いであるだけでなく、逆に更に大きな問題を作り出すだろう。なぜならその発想こそが生物学的多様性に反するからだ。

旧約聖書の創世記という章で、ノアの箱舟の寓話が記されている。罪深い人間の姿を見た神は、彼・彼女らを創造したことを後悔し、洪水によって人間および動物たちを滅ぼすことにした。神は、自分に従順で無垢な人であったノアに、箱舟を造らせ、ノアと妻子、そして、神に代わってノアが選び出した一部の動物たちと共にそこに入るよう命じる。神は洪水を起こし、ノアと、彼と共に箱舟に乗ったものだけが生き残った、というストーリーだ。つまり、選ばれた人たちと、その人たちが選んだ種だけを守ろうという発想だ。

ダ―ヴィンはその学説により、大昔から信じられていた「神による生命創造論」を、見事に真っ向から否定して見せた・・・つもりだった。ところが、キリスト教文化の国に生まれ、同文化にドップリ漬かって育ったダ―ヴィンは、「選ばれしもの」というところまでは自分自身の土台を否定しきれなかったのでは、と考えられる。その自脳内改革の不徹底さがあったが為に、同時代の選民主義者ら、支配を志向する者たちに、自分の学説を利用する隙を与えてしまった、と言えるのではないだろうか。そして、優生学に道を開いてしまったのだ。

ダ―ヴィン以降においても、生物学に属する各分野で様々な斬新な理論、学説、技術が世に送り出されてきた。しかし、そこにはどうしても優生思想が入り込む。優生思想は差別を生み出し、社会の分断を生み出し、そのままこのネガティブなプロセスの継続・進展を許してしまえば、最終的に人間社会は崩壊せざるをえなくなる。その担い手が人間という生物だからだ。ナチスを代表とする優生思想に凝り固まった集団が長く栄えたことがないのは、それが生物学的多様性の原則に反するからだ。
もっぱら、優生思想は繁栄と衰退を繰り返しながらも、永遠に消え去ることはないのだが。

実際に、ずっと優秀だと思わされていたものが、別の文脈では劣ったものになる。また、劣っていると思わされていたものが、実は場面や条件が変わると優れたものになる。状況によって、時代によって優位に立つものが変わる。優劣は、人間を含む種が恒久的に持つ属性ではないのだ。生物の多様性とはそのようなものであり、特定の思想によって優劣を決め、価値を決定・固定できると思うことは浅はかで愚かなことである。そうした集団は多様性を失って自壊してしまう。

選別を繰り返しすぎて、生命力を失った種子に古い種子を交配させることでその生命力を取り戻すことができるそうだ。生命は多様であるからこそ、維持できる。そして社会も多様であるからこそ、維持できる。大事なのは優秀な種子ではなく、多様な種子であり、優秀な人たちではなく、すべての多様な人たちなのだ。

最初、わずかな人たちであったとしても、それが共感されることで徐々に増えていき、人びとも社会も変わっていくことができる。一方、そんな悠長な経過を待っていられない、間に合わない、と焦ってしまえば問題解決どころか逆に大きな被害を生み出してしまう。誰一人取り残さない社会をめざすということは、ひと時も忘れてはならない、私たちの世界の大原則であることをしっかりと心に刻んでおきたい。

今後、さらに浮上してくるであろう優生思想に対して、しっかりと対決したい。大事なのはすべての命。確かに、人間が生きるためには他の命をいただく必要もあるけれども、その命をも絶やさないように守ることもまた私たち人間の責務でもあり、それでこそ私たち人間の命も守られるのだ。私たちは世界の生物学的多様性に依存しているのだから。


【筆者プロフィール】
古本 聡(こもとさとし)
1957年生まれ 脳性麻痺による身体障害1種1級
旧ソ連で約10年間生活。内5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、介助者の勧誘・コーディネートを行う。
大学卒業後通訳・翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年からユースタイルカレッジの重度訪問介護従業者養成研修統合課程での実習/講話を主に担当。
現在はユースタイルラボラトリー社員。
妻、娘の三人家族。