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自己肯定感について

自己肯定感について

〜涙をめぐる考察 安積遊歩



あなたは泣いている赤ちゃんの涙を、どれくらい聞き続けることができるだろうか。
私は赤ん坊の頃、よくよく涙を聞いてくれる家族のもとに育ったので、私自身も赤ん坊の涙を聞くことが得意だ。涙は彼ら自身の今であり、心や身体に溜め込まれた悲しみや怒りや様々な不安を表出しているのだ。涙は負の感情に巻き込まれないで、よく考え、行動するために必要な回復力なのだ。自分自身を肯定したい人は、まず自分の涙に、その泣きたいという思いに向き合い、 まずそこから肯定してほしい。
私は赤ん坊の頃から私の涙を肯定し続けてくれた家族に囲まれて育った。彼らがどのように私の涙を受容したかを少し書いてみよう。
母は、昭和一桁、父は大正9年生まれで、二人とも同じ福島県福島市の地に生を受けたが、年齢は8つ違いだったし、物心つくまでの、あるいはついてからの状況は随分違っていた。その違いを更に決定付けたのは、母親が女性であり、父親が男性として生まれたことだ。
赤ちゃんを迎える大人たちは、まず赤ちゃんの外性器によって、その子が男であるか女であるかを認識する。家父長制が強い時代は、女として認識された赤ちゃんは、人間ではなく財産の一つで、男の子もまた、家父長制の拡充者として暴力的に育てられることが多かった。

また、赤ん坊の身体がどのようであるかによって、大人たちの態度は強力に違ってくる。手足が欠けていたり、頭がすごく大きかったり、私のように父親の言葉で言えば、脚が萎びて生まれた子は、多くの社会で殺され続けた。
戦後は、医療の発達と人権意識の高揚もあり、治療という医療の介入が始まった。友人の子は、手の指の数が多すぎると言われて、生後数時間以内にその指を切り取る手術を受けさせられたし、わたしも生後40日目から「骨形成不全症」と診断され、一日おきに男性ホルモンの注射が始まった。

わたしのその過酷な人生を支えてくれた母親とその時代の話に少し戻ってみよう。
母親は貧しい小作農の祖父と、彼とともに百姓仕事と家の切り盛りをしていた祖母のもとに生まれた。両親とも優しい人たちで、彼らの家が東北最大とも言われる温泉地にあったので、常に多様な人の出入りのある暮らしの中に育った。
私自身も時々母親の実家に行き、多様性に満ちた村の共同温泉を訪れた。その中で、女装趣味の男性や、当時「あんま」と呼ばれた視覚障害のマッサージ師が、白杖で、あるいは手をひかれたりしながら銭湯に来ていたのを、不思議な思いで見ていた。母親の家は、お寺の隅っこにあって、1階は板の間に筵か茣蓙のようなものがひいてあった。そこは現代のリビングとはかけ離れた様相ではあったが、一応居間だったので、大人数の家族だけでなく、客もしょっちゅう出入りしていた。その隣には台所があって、調理場としての囲炉裏があり、その二つの部屋に取り囲まれる形で玄関、土間があった。
今の清潔感から信じられない事だろうが、その土間には常に5、6羽の雌鶏がいた。ただ、その鶏が産んだ卵は、母親が幼い時には大事な収入源であったので、彼女らの口に入る事はほとんどなかったという。
時代が変わって私が物心ついた頃には、生まれたての卵は私たちへのご馳走となった。祖父母の家では、私の身体が人と違っていることで、ひどい扱いを受けるということは全く無かった。それどころかひたすら大事にされるという、光栄な個性だった。骨折して、痛みと動けなさで怒って泣いても、誰からも「うるさい、泣くな」とは言われなかった。

私は、非常に怒れる子供だった。その怒りは、医療関係者、私に痛いことをしてくる大人たちに向けられたものだった。しかし、直接的に彼らに向けても、彼らはさらにその怒りを見下し、無視してひどいことをしてくる。言葉を持たない赤ん坊であったからこそ、その学びは強烈だった。私の怒りと悲しみは、それを聞いてくれる家族、特に母と妹に向けられた。

言葉を駆使できない赤ん坊が、涙で表現することをほとんどの大人たちは聞くことができない。しかし私の家族、特に私の母と妹は涙は激しい怒りや悲しみから立ち上がるための道具であり、回復力であると知っていたかのように聴き続けてくれた。

赤ちゃんが泣くことを、妨害しないでほしい。今、怒りと悲しみに打ち震えながらそれを溜め込んで身体を傷つけないために、涙が必要なのだと、ゆっくりとそばにいられる大人達が赤ちゃんの育ちには本当に必要だ。母親とその家族は、痛みや怒りで泣き続ける私を、ゆっくりとまではいかないが、わたしを止める事なく責める事なく聴いてくれた。それ以外に方法はないのだと、私の涙を受容し続けてくれた。涙を受容されることは、私自身を受容される事であったから、私は私の障害をも含めて自分自身であることを、認め、愛そうという旅を早いうちから始められたのだと思う。

それに比べて父親がどうだったかも書いてみよう。父親は、小さな村の三世代続いた魚屋の長男として生まれた。10代前後に、日本の植民地とされていた旧満州国に、その魚屋をアルコールで飲み潰してしまった父親に連れられて渡った。

女性に比べて男性は、圧倒的に自分のことを伝えることをしない。自分自身のことには価値がないかのように、時代や芸術、仕事のことは話すが、自分と家族との関係や特に幼い時の話などは、男らしくないと沈黙し続ける。

それでも私の父は、酒の力を借りて話す方ではあった。飲酒しながら話すことで一番多かったのは、シベリアでの捕虜体験。どんな辛い感情もその戦争体験によって、封印されたかのように、話の中に涙が流れることは一度もなかった。
高度経済成長期に向かうなか父は、小売書店を福島県内1の販売数を誇る書店に持っていくという手腕を発揮した。今思えば父は、戦争での暴力体験を兄と妹にも伝播した。しかし、骨の弱い私には、読書の楽しみを教えてくれ、私の一言一言を「賢い子だ」と言って聴き続けてくれた。
私は母の実家で、物質的に貧しい暮らしではあったが、精神的には存在そのものを慈しまれ、そして、父には読書から想像力を豊かに育むことを伝えられた。

それら2つの環境があってさえなお、自分自身を肯定するまでには随分の時間がかかった。それはひとえに、医療や教育による社会からの差別と優生思想の過酷さゆえであった。もしそれらがなく、母の実家の暮らしと父からの読書世界への招待だけがあったなら、もっと早く自己肯定感はやって来たに違いない。

その仮説を実証したいと思ったわけではないが、わたしは同じ障害を持つ子を生むことができた。彼女には非常に注意深く医療からの介入を避け、多様な人々との共同生活を実践した。また、娘の父はPCを使って世界と繋がる事の面白さを伝えた。だから彼女は様々な闘いに自分を消耗させることなく、自己肯定感を育み続けてこれたと思う。

障害は自分自身の中だけで受容できるものでは全くない。その身体を取り巻く社会からの抑圧、それこそが障害であることに大人たちが目覚め、排していくことが大切なのだ。そして子育ての中においては、自分がされて嫌だったことはしないと決断すること。涙を使って、負の感情から立ち上がり続けようとしている赤ちゃんや子どもの今に、寄り添い続けてほしい。

そしてなによりして欲しいことは、大人であっても自分の辛い気持ち、泣きたい気持ちを認め、それを表現できる人間関係を持つこと。涙を否定したところに真の自己肯定感は育たないのだ。