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ケアという営みから学んだこと

ケアという営みから学んだこと

高浜敏之



最近2歳半になる長女がケアの営みに忙しくしている。いわゆる、ままごと、というものだろうか。バイキンマンの歯を磨いたり、アンパンマンの体を洗ったり、自分が寝るときは必ずくま さん人形を隣に寝かせ、寒くないように丁寧に毛布をかけてあげている。もうすぐ1歳になる次女が泣いていると抱っこしてあげ、リビングに彼女が間違えて食べてしまいそうなものが落ちていたらすかさず気づいて拾い、「これ、はーちゃん、危ないよ ~」といいながら妻に持っていく。

私が妻に叱責されて凹んでいるとみるや、私のそばに寄り添い、「パパ、かわいそうねー」 といいながら頭を撫でてくれる 苦笑

口腔ケア、入浴介助、就寝介助、見守り、寄り添い、傾聴、などなど、介護の実技演習で 学ぶラインナップが出そろっている感がある。誰に頼まれたわけでも、教え込まれたわけでもないのに、ケアに奔走する長女が、その営みに価値を発見し、そこから何かを学び取ろうとしているのが伝わってくる。いま彼女が、ままごと、というシュミレーションを通じて学んでいることと、私が10年余りに及ぶ生業としてのケアという営みから学んだことは、ある種の近しさがあるかもしれ ない。

私は、そして私たちは、ケアという営みから何を学びうるのだろうか。

青春時代、さまざまな希望を抱いた。プロボクサーになること、作家として生きること、大学でアートや文学や哲学の研究者として身を立てること、全てが実を結ぶことなく、挫折経験の先にケアというお仕事と出会った。

はじまりは重度訪問介護からだった。

24時間、介護者と共に生きる障害を持った方々とその革新的なライフスタイルや思想に感 銘を受けた。そのまま障害者運動の世界に身を投じることになった。重度の言語障害を持つ当事者の方々が、まさに「声なき声」を社会に投げかけ、その結果、社会のフォルムが変容していく社会変革の事件を目撃し、衝撃を受けた。

神障害を持った方々のコミュニティで有償ボランティアをする時間をいただいた。傷ついた人たち、苦しんでいる人たち、場所のない人たちが、そこに居場所を発見した。その静けさと優しさのもたらす安心感が忘れられない。苦しみの物語に耳を傾けさせていただいたとき、強い友愛の感覚が到来したことが忘れられない。

認知症の方々が住まうグループホームでお仕事をさせていただいた。ケアという営みの奥 行の深さを実感した。スタッフは私よりも10歳以上若い人ばかりだったが、そのスキルや 知識や誠実さに心からリスペクトを感じた。

ユースタイルラボラトリーの立ち上げに参加し、仲間と共に0からお泊り付き小規模のデイサービスを作っていった。コミュニティの中で様々なドラマが生まれ、通所してくださるご利用者様のあまりにも多様な人生経験というドラマに触れ、胸が揺さぶられた。またセイフティーネットの限界を目撃し、ケアマネージャーさんたちと協力しながら場所 のない方々の次なるステージへの渡し船のような役割を担えることに、心からやりがいを感じさせていただいた。

このように重度訪問介護、精神障害を持った方々の居場所、認知症対応型グループホー ム、小規模デイなどの現場経験をさせていただき、何を学んだかと自分に質問したとき、あまりにも答えが多すぎて、いささか混乱する。

他者への開かれ。

強いて言えば、そのように要約できるかもしれない。他者の存在に、身体に、声に、眼差しに触れることを通じて、自分の思考や経験や傷に閉じた私が、他者に開かれゆく。 いわゆるニート状態にあった若者が、このお仕事を通じて社会参加のチャンスを発見した 場面を何回もみてきた。

長女はいま、アンパンマンやバイキンマンやくまさん人形や次女や私のケアを通じて、他者と出会う機会を模索している。

そして私も。

自分の能力や知識や経験を生かして自分自身の価値を証明しようと躍起になっていた私は、挫折を経由してケアという営みと出会い、それまでとは異なるスタイルで、他者と出会い、他者に開かれ、自分自身と再会するチャンスを発見させていただいた。痛みと自己防衛のパターンから、クルミのように頑なになっていた私は、このお仕事を通じて、かつてよりは、他者に開かれている、と感じる。

ケアの営みに身を置くときの時間は、ゆっくりで、きめが細やかだ。
特に見守る時間は。

ビジネスの時間では気づかないことに気づく。言語による意味伝達がコミュニケーションに含まれる情報のほんのわずかであることを再認識させられる。時に出会うその苦しみも含め、実に奥深い営みであり、そこから得られる学びは尽きない。

気を取り直して、最近拒絶され続けている長女の洗髪のお手伝い、めげることなく今日も またチャレンジしてみようと思う。

※高浜敏之プロフィールはこちら