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やまゆり園事件の死刑判決に思う

やまゆり園事件の死刑判決に思う

安積遊歩



「3月16日に植松被告への判決が出るので取材したいのだが」という電話があったのが、3月初めのことだった。私は中学生の頃から死刑制度について大反対だったので、ここでそのことについて発言できる機会と感じ、すぐにそれを了承した。
ただ、テレビに私の想いが100%伝わることは殆ど無いので、あまり期待はしていなかった。

しかし、ディレクターは若い女性で、優生保護法の時からの知り合いだった。だから、死刑制度は優生思想をシステムとして機能させているもので、それは優生保護法と同じなのだという事をきちんと聴いてくれた。死刑制度は人権の“じ”の字もない、残酷で野蛮な制度だ。いわゆる、経済的に豊かと言われ、識字率も100%に近く、人権についても公に語ることが当然である国々の殆どは死刑を廃止している。

去年ニュージーランドで、イスラムの人達がモスクでお祈りをしている時に、その中の45人が殺害されるという恐ろしい事件があった。これは人種差別に基づいたヘイトクライムだったが、首相のしたことが素晴らしかった。その犯人の言いたいことをマスメディアで報道する事を禁じ、彼を名無しと言って、名前も報道させなかった。元々死刑のない国だから、「彼の処罰については、一切司法に任せる」と言って、彼女はひたすらに被害者家族への哀悼の意を示し続けた。クリスチャンでありながらイスラムのヒジャブを被り、家族の1人1人を抱きしめた。

各都市でも人々の自発的な哀悼集会が開かれ、イスラム教や仏教やキリスト教などの宗教関係者や先住民のマオリの人々、若い人、そして障がいを持った人など多様な人が集まった。壇上に立った20人くらいの人たちが、次々にスピーチをし、歌を歌い、最後には会場全体にキャンドルが灯された。スピーチも歌も素晴らしかったが、特に若い人が語ったこと、「未来は私たち若い人が作っていくもの。ここでお互いの違い性に分断されるのでは無く、1人1人の想いに耳を傾け、その違いを尊重し、祝福し合っていこう」という言葉は参加者全員の心に響き渡った。私もその追悼集会に参加した。そこにあったものは人々の知性と更に平和を作っていくという固い決意だった。

どんな事件や犯罪が起きても、1人1人が真摯に考え抜くことが大事なのだ。そして、更なる平和を作るためにどうしていきたいかに徹底的に注目すること、それが政治や司法を含む社会の役割だ。にもかかわらず、死刑制度はそれを妨害する。死刑にしてしまえば、全ての問題は解決するかのような幻想と思考停止状態を作ってしまう。

優生思想を語る時、その総本山は戦争である。その戦争にも等しいのが死刑制度である。殺される人の数は違うが、そのどちらも敵や犯人を憎み、邪魔であるという感情だけに注目して、理性的に考えることをやめさせる。これは全く、戦争を起こし継続させる理論と同じだ。そこにあるのはマスコミで煽られた憎悪感情で、その事件に対して、次に人として私達がとるべき態度を見えなくする。

チャップリンが『独裁者』という映画の中で言っていることがある。「何百人、何千人を殺せば英雄、1人とか数人を殺せば死刑囚になる」と言うわけだ。今回の植松被告に対しても、19人ものおびただしい数故に被害も甚大、という判決だったが、その言葉で考えを麻痺させられた人も多いことだろう。

ここ十数年、私はまた新たな凄まじい優勢思想の登場に、本当に悲しみ、うんざりしている。出生前診断だ。お腹の中で障がいの有る無しを診断され、一切の弁論も許されず、死刑にされる胎児たち。そこに直接的に関与しているのは女性なので、胎児を中絶する女性の体も心もまた、深く傷つく。しかし、そこに対する注目やケアも殆ど無く、世界は進み続けている。

死刑制度は実際的に仕事として手を下さざる負えない刑務官を、深く深く傷つけていると思う。仕事という事で、自分が殺人者にならなければならないという事実。そこを真剣に見つめ、死刑制度廃止への声をともにあげて欲しいと心から願う。しかし残念なことに、仕事だからという『正義』は、強力に人の心を支配して、死刑制度は止まらない。戦争に赴かされる兵士達も全く同じで、殺人をする事は正義であり、それで食べてもいける大事な仕事というわけだ。ここには殺人もまた『正義の仕事』なのだということで、思考停止と感覚麻痺を奨励する社会がある。

私は優生保護法と死刑制度を中学の時に知ったのだが、いつかそれを廃絶したいと真剣に考えてきた。そして前者の文言としての障がい者差別は1996年に削除され改訂された。しかし死刑制度については、政治も人々の意識も国家的殺人を肯定するという、私にとっての異常事態は変わっていない。何故、死刑制度が問題なのかについての本は沢山出ている。それでも、反対する側の人達の声はまだまだマイノリティだ。死刑制度を残しておきたい人々の力の方が政治やマスメディアを支配し、多くの人に無知と思考停止をもたらしている。

私は中学の時に、冤罪の恐怖についての本を読んだ。死刑制度がある限り、例えその事件と全く関わりがなくても死刑にされてしまうことがあるという、驚くべき事実の数々が書かれてあった。人は間違いを犯す。その究極に、殺人があるのだが、その殺人事件を上塗りする形で死刑が存続している。1人1人の人間の知性を、死刑制度は奪い冒涜している。そのことに気づいた人たちが多く住む国々は、どんどん死刑を廃止している。

私のこれらの発言は、被害者感情を無視していると言われることがある。しかしそれに対して言いたいのは、私は究極の被害者であるということだ。つまり、胎児の死刑制度にも等しい出生前診断が、私が生まれた時代には無かった。だから無事生まれてくることができただけなのだ。そして成長する中にあった、優生保護法。これも障がいを持つ私達は子供を産んではならないという事で、私たちの子供に対する死刑制度でもあると感じていた。もし私の周りの人々の意識が差別に満ち満ちていたら、そして私自身がその差別を内面化していたら、娘を生むことは無かっただろう。

私は40歳で同じ障がいを持つ宇宙(うみ)という名の娘を産んだ。彼女には、障がいがあることによる自己否定感は一切連鎖しないという決意をもっての出産だった。そのためには、様々な助けを求め、あらゆる多様な人々の群れの中で育てた。自分の人生を大事にできるのと同じように、他の人の命も人生も大事にできる人であって欲しいと望み続けた。

それでも、人生には何が起こるかわからない。彼女が殺人事件に巻き込まれるということも万に一つ起こりえない事ではない。ただ、そのときでさえ私は、犯人を憎むことだけにエネルギーを費やしたくないし、費やさないぞと考えている。最愛の娘の命を奪うことになった犯人の重大な過ち。その償いは、犯人にだけ押し付けるべきものではない。その過ちを犯した人を生み出す社会。私はその社会をこそ、よく見ていきたいのだ。この社会は障がいを持つ胎児を死刑にしていることになんらの自覚もない。私はその社会で過去に私が障がい胎児であった、被害者という立場を生きてきた。だからこそ社会全体の加害者性がよく見える。つまり、出生前診断を人間の倫理観や理性を超えて実行し続ける医療や、それに乗り続ける人々。私にとっては、殺人事件を犯す人たちの背景にこうした人達がいることがよく見え、とてもとても辛いのだ。

この世界は障がいを持つ胎児であった私にとっては、ときにまだまだ戦場なのだという認識を迫ってくる。私たちは、平和を語り、求めながら死刑制度を見過ごし、無関心になることを今すぐやめなければならない。障がいのあるなしに関わらず、更に言えば具体的に殺人事件を犯す犯さないに関わらず、全ての人の命は究極に等しく大切なのだから、死刑制度を止めるための重要なきっかけとして、この事件を語っていきたい。


【略歴】
1956年、福島県福島市生まれ。生まれつき骨が弱いという特徴をもつ。22歳で親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介。障害者の自立生活運動をはじめ、様々な分野で当事者として発信を行なっている。
2019年7月、NHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。