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映画「トガニ~幼き瞳の告発~トガニ~幼き瞳の告発~」から考えたこと〜コロナウイルスと食べ物からの叫び〜

映画「トガニ~幼き瞳の告発~トガニ~幼き瞳の告発~」から考えたこと〜コロナウイルスと食べ物からの叫び〜

安積遊歩



ずっと観てみたいと思っていた映画、『トガニ~幼き瞳の告発~トガニ~幼き瞳の告発~』を観た。

これは、2000年〜2005年に韓国の聴覚障害児の学校で起こった、性虐待事件を基にしたもの。2009年に『トガニ』という本が出版され、その本を読んだ監督が、どの様に映画化できるのか、という葛藤を経て制作。
そして2011年に公開され、その年の終わりにはトガニ法という法律ができた。

トガニ法という法律は、この映画によって韓国の人々の怒りと良心が結集してできた法律。この映画は、聴覚障害児の学校の校長と教員数名が、13歳以下の子供たちに繰り返し性虐待を行っていた事件を扱っている。

映画の中でも現実の裁判でも、凄まじい性虐待であったにも関わらず、実刑の判決はそれぞれ執行猶予数年付きの実刑2年6ヶ月という軽いものだった。
しかしこの映画が公開されるや否や、棄却されていた控訴が認められ、判決が執行猶予無しの実刑12年に変わった。

この映画の内容も衝撃的だったが、この映画によって法律が新しく制定されたという事実が、私には更に衝撃的だった。
映画の中では、少女2人と兄弟2人の計4人が、数年に渡って性虐待に曝されていた。それをその学校に赴任して間もない青年教師によって、事件が暴かれてゆくのだった。

私はこの映画が公開されて間もない頃にネットで、一瞬だけ予告編を観ていた。
しかしその後東北大震災があり、あまりにも自分の生活が激変して、映画のことは遠い記憶になっていた。
それが、今度はコロナウイルスで自主隔離状態を続けているという、これまた日常が激変している時に再会することになった。

聴覚障害児の学校と寮という状況は、私自身の11歳〜13歳までの養護学校にいた日々とも重なった。
隔離された場所での権力関係が大人と子供という様に、圧倒的な格差があると虐待も暴力も容易に生じる。その上、障害を持つというような更なるハンデがあると、それが可視化されるということは殆ど無い。

『トガニ』の映画が素晴らしかったのは、主人公の青年教師や、彼に依頼されて動き出した女性の人権活動家の立ち位置だった。彼等にとって事件は「他人事」ではなく、完全に「自分事」になっていた。

青年教師には死別した妻との間に、女の子がいた。その子の事で彼に文句を言いに、母親が裁判所に会いに来るシーンがあった。その時青年教師は、孤児である被害者の証言を励まそうとして、被害者にぴったりと付き添っていた。それを見た母親が文句を言い散らすのだが、その時に答えた彼の言葉に心を打たれた。「もしこの子の手を今離してしまったら、自分の娘に対しても良い父親にはなれない」と言ったのだ。

私たちはどんな事に関わる時でも、自分の立ち位置を何となく測りながら、関わり出す。どれくらいまで関わったらいいかとか、深入りするのはどうかとか、自分とその人や事象との関係を、時に慎重になり過ぎたり、怯えたりしながら進み出す。

これは映画の中のことだから、主人公の彼が本当にそうしたのかどうかは分からない。「他人事」から「自分事」になっていく立ち位置の変化を表すシーンとして心に残った場面が、もう1つあった。

自分の担任の子が他の教員から虐待されているのを見た時、1回目は止められずに呆然としていた。しかし2回目はそうでは無かった。
校長がその虐待教員に「場所を移してやれ」というような事を言ったので、その教員が兄弟の兄の方を連れて廊下に出た。青年教師の脇をすり抜けて行く2人を見送るのかと思いきや、彼の腕に抱えられていた大きな蘭の鉢ごと彼は駆け出した。そして思い切り、その虐待教師めがけて、その鉢を投げつけたのだ。
その瞬間、その子が受けていた暴力は彼のものになって怒りが爆発した。前後の見境なく駆け出して、蘭の鉢を虐待教師の頭にぶつけるシーン。
粉々に砕けた鉢が映し出されて、私はその青年教員の立ち位置が、保身から対決へと変わったことを理解し、了解した。

そしてこの映画にはもう1人、女性の人権活動家が出ている。
性虐待の後、校長の愛人でもある女性教師から、報復的暴力を受けてベッドに横たわる少女。その少女を助け出して筆談で話を聞く、女性人権活動家の共感能力の素晴らしさ。その能力を行動化し、青年教師を励まし、時にリードし、裁判に持ち込み闘ってゆく。

ところで彼女を見ながら、このコロナウイルスの惨劇を賢く対応している女性政治家達を思い出した。女性の共感能力こそが、命を守る時の大原点なのだ。
ドイツのメルケル首相に始まり、台湾、ニュージーランド、アイスランド、ノルウェー、デンマークなど賢いリーダー達。何れも女性だ。その命を守るという政策が実を結んで、それらの国々では死者数も感染者数も非常に少ない。(ただドイツだけは感染者数は多くても、死者数が非常に少ないというのが、それはそれで更にメルケル首相の賢さを物語っている。)

それと比べて、男性リーダー達に顕著な政治理念は人々の命では全くないという事が、最近更に明らかである。
トランプがコロナの感染初期にしたことは、中国人の出入りを禁止するという人種差別に基づいての対応だった。そして日本の政治家は、オリンピックに執着し続け感染を拡大し、4月1日にはエイプリルフールそのままの、各家庭へのマスク2枚の配布を発表。経済界の圧力なのか、人々の命には何の関心もない愚かさを露呈し続けている。
その2人に共通するのは、人々の命を大切にすることは自分の仕事では全くないという無知と無関心。更に言えば自分の力を誇示し、経済に異様に執着し、人々の命は完全に自分事ではないという、冷酷さ。

この映画の中で子供達に凄まじい性虐待をする教員達の残忍さは、どこかでトランプや安倍さんのそれを想起させる。
つまり、コロナウイルスの蔓延に怯える私たちが被虐待児で、それを見下すようにして政治の座に居座り続ける男性リーダー達が加害教員達という風に重なる。

暴力を受けてもそれが暴力であるという事を共に共感し、立ち上がってくれる人が居ない限り、ただただ被害者は泣き寝入りだ。
この映画によって、5年間に亘っての凄まじい暴力が明るみされたからこそ、社会、そして法律が変わったのだ。13歳以下の子供達に対する加害者達の実刑が見直され、その刑罰が重刑化された。

ドイツのメルケル首相は、芸術をする人たちの休業補償を3ヶ月間に亘って、月々30万も補償したという。私は正直、芸術をする人たちがそこまで補償されるのかと、驚きを感じた。
しかしこの映画を観て、この1本の映画がここまで社会を変え、法律を作ることができると知り、芸術とメルケル首相の英断を見直した。

人間の共感能力に基づいた政治をするという事。そして政治だけでなく、あらゆる仕事をそこに基づいた視点で行うという事。この映画の中では主人公の青年教員が、自分の共感能力を呼び戻し、育て、子供達の現実を変えた。
まず最初は、この事件を新聞で知った女性作家が小説にしたところから始まったという。その小説を主人公役の俳優と監督がそれぞれに読み、映画化がなされた。

今私たちが生きる現実は、あまりにも厳しい。今日にもコロナウイルスに感染し、明日には死への旅を、自分も含め誰か大切な人が歩むかもしれない。そして更に日本の状況が厳しいのは、そこに対策を建てるべきリーダー達が限りない共感能力の欠如にあるということ。また、リーダー達が怯えている経済の恐慌によっても失業し、食べられなくなるという恐怖がくる。

しかし、ここで一歩立ち止まって考えなければならない事がある。私達の食べ物の事だ。
今日本は食べ物の自給率が大きく下がり、その殆どを輸入に依存している。その上、折角輸入した食べ物を信じられないほど多く捨てまくるという生活をしている。つまり私達は食べ物である生き物に対して、散々な暴力を働いているのだ。

コロナウイルスのこの惨劇は、散々食べ物とされてきた命からの警告であると私は考えている。動物も植物も私たちの食べ物としてのみ存在するわけでは全くない。にも拘わらず、ここ数十年のグローバリゼーションの中で消費至上主義が世界を席巻した。
そして命たちは、強烈に人間の「食べ物」としての枠に押し込められたのだ。

命は本来、一つ一つが大地と太陽と水との恵みだ。動物や植物、それらの命は、多様な形でそれぞれが大事な役割を担っている。その命たちがありとあらゆる食べ物に加工されて、コンビニやスーパーの棚に大量に並べられる。加工や流通の過程にも、どれだけの人の汗や血が流され、どれだけ過酷な搾取があったかが全く見えない。大量に棚に置かれている食べ物は全て、命として、その一つ一つのやってきた所を知り、大切に向き合ってほしいと叫んでいると思うのだ。

性虐待に悲鳴をあげて、助けを求める子供達の命と、食べ物としてのみ消費される命の悲鳴もまた、重なって聞こえてくる映画だった。

一本の映画が広めてくれた思索の幅は、このコロナウイルスが蔓延する状況だからこそ、非常に大きかった。皆さんにも是非、観てほしいオススメの映画だ。




【略歴】
1956年、福島県福島市生まれ。生まれつき骨が弱いという特徴をもつ。22歳で親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介。障害者の自立生活運動をはじめ、様々な分野で当事者として発信を行なっている。
2019年7月、NHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。