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新型コロナウイルス禍およびトリアージ(triage)という言葉に思う

新型コロナウイルス禍およびトリアージ(triage)という言葉に思う

古本聡



本稿を書き進めていくにあたり、何よりも先ずは、今もなお猛威を振るうことを止めない新型コロナウイルスによる疫病に、不運にして感染・罹患してしまわれた方々に心からお見舞いを申し上げるとともに、一日も早いご回復をお祈りいたします。また大変不幸なことにこの疫病に命を落とされた方々には深い哀悼の意を表したいと思います。さらには、このような状況の中でも、人々の命、そして生活を守るべく日夜、文字通り自らの危険をも顧みず見えない悪魔と戦ってくださっている医療関係者、介護関係者、その他のエッセンシャル・ワーカーの皆様に、最大の敬意の念と、心の奥底からの感謝の意を表したいと思います。

さて、最近、「トリアージ」という言葉を耳にしたり、読んだりすることの頻度が増しているとは思いませんか。私がこの言葉が気になり始めたのは、実は言うと、今回のコロナ禍が発生する少し前でした。テレビで様々な医療ドラマが放送されるようになってからです。

大事故の発生で一軒の病院に次から次へと運び込まれてくる、血まみれの負傷者。ある者は自力で、あるものはストレッチャー上で心臓マッサージを受けながら・・・。それを見た凛とした姿の美人女医が、病院全館に響き渡るような声で一言叫ぶ、

「トリアーージ!!!」。

最近、この言葉を、5歳の幼児が叫んでいるのを聞いて、鳥肌が立つとともに、何とも言えない嫌な気持ちが私の心に沸いてきたのでした。あの子の眼にはあの女優が、随分とカッコよく映ってるんでしょうね。周囲の大人はそれを見て微笑、褒めるのでした。が、大いなる天邪鬼の私としては、このtriageなる言葉を、公共のメディアを介して子供までをも巻き込んで一般に広げようとする裏には何か思惑が働いているのではないか、次に来ると予想される災禍(震災、大事故、疫病、etc)への対策の伏線ではないのか、と疑ってしまいます。私の実家は、私以外、親兄弟全員がマスコミ関係者または元関係者ですので、そうしたプロセスを何回か裏側から見てきました。ですから、余計に敏感になっているのかも知れません。

ところで、このtriageがフランス語だということは知ってはいても、元々は何の政治的・思惟的な意味も持たない「選び取ること」を意味するこの単語が、ある時から軍事医療用語になったということまでご存知の方は案外少ないと思います。戦場において、敵味方を区別して、味方のみを、そして負傷の程度に応じて選別的に将兵を救助し医療を施すことを指すようになったのです。

18世紀の哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、戦時医療について次のように述べました。

『負傷兵は、戦力外になったとみなし、もはや敵味方の関係のない自然状態の人間に戻ったと認め、その基本的な人権を尊重して平等に扱うとことが民主主義的な方法である』。

この考え方は、赤十字条約が求めている、全ての患者・負傷者に対する待遇であり、そしてまた、人間が大昔から人道的であると感じて来た病者への待遇でもあることを付け加えておきます。

1789年のフランス革命により 「人権」 という概念が、軍隊という統率、規律、合理的危機管理、そして優勝劣敗の原則が最も重要視される、ある意味とても特殊な世界にも入ってきました。その時代に、それまでは戦場で放置されてきた傷病将兵の人権を守るため、軍隊内において医療衛生部隊が組織・設置されました。ルソーの教え通りに、フランス軍の医療衛生部隊は敵味方の差別なく、戦場で倒れたもの、不運にも戦渦に巻き込まれ負傷あるいは病気にかかった周辺住民の治療を行ったのでした。ただ、恐らくは、1799年のサン・ジャン要塞包囲戦が唯一の例外となり、それ以降の軍事医療の方向性に大きな影響を及ぼしたようです。

サン・ジャン要塞包囲戦は、戦争史の中でも最も熾烈を極めた戦いの一つです。ナポレオン率いるフランス軍は、イギリス軍から兵器・物資の提供を受けるオスマン帝国軍による猛攻に晒されて甚大な人的損害を被ってしまいます。そのため、人権の保護よりも戦術的要求を優先しました。このときに行われたと考えられる選別的・差別的医療を triage (トリアージ、選別)と呼ぶようになったのです。Triage は非常に大きな人権問題です。逆に言うと、明らかに人権問題でないものは triage ではありません。例えば、軽傷者が多いときに重傷者の治療を優先させる、あるいは重傷者の中でも最重傷の者から治療し始める、といった行動はtriageではありません。このような行動は、おそらく何千年以上もの歴史をもつ人間的な行為であり、人権を蔑ろにする triage とは明確に区別する必要があります。つまり、戦場で傷ついた者の中から、この先も役に立ちそうな者、平時において社会的地位があり、影響力を発揮しそうな者を選択的に救い加療したとしたら、これはもうれっきとしたtriageなのです。

市民革命で勝ち取ったはずの民主主義(共和制)が実に短期で衰退し始め、帝政に傾き、そして王政復古期に突入したフランス、その軍隊の中で、triage は復活し、ヨーロッパ諸国の軍に広まっていったと考えられます。Triage は、民主主義の思想を根底から蝕んでいき、世の中をより野蛮で敵対心、冷酷さが支配するものにしていくのです。

では、私たちが棲むこの日本ではどうだったのでしょうか。明治維新という、お上の方からいきなり丸投げされたような物ではありながらも、一種の民主主義革命で誕生した明治期の日本軍は、それまでずっと伝統として人々の中に生き続けてきた慈悲の念、情、連帯感があったうえに、平等な社会を築いていきたいという国民の期待が強かったため、ヨーロッパ諸国軍の triage 導入を一時は退けました。 しかし、大正期に入ってから triage を開始します。 その結果何が起こったか、というと・・・。軍、特に陸軍の軍医の医療倫理が崩壊し、間もなくして細菌兵器を開発したり、人間を使って生体実験をしたりする医学部隊が誕生することになりました。また、それと同時に、神風特別攻撃や人間魚雷、一億玉砕といった自国民に対するジェノサイド(強制的に大量の人々を自殺行為に追い詰める、という意味で)を受け入れてしまう状況を生じさせてしまったのではないのでしょうか。

1799年のサン・ジャン要塞包囲戦以降、約150年の間、triage はか軍の中で密かに続けられた人権侵害(1864年以降は赤十字条約違反)でした。1950年に始まった朝鮮戦争以降、triage はアメリカ軍によって一般の市民社会に広められました。Triage を容認するようになった社会の中では、個人の人権を尊重する思想が衰退し、全体主義的な思想が支配的になります。

今まさに、日本社会でも triage を容認する人たちが増え続けています。 この流れを止め、変えないといけません。さもないと、日本はかつてと同じ失敗を繰り返すことになるでしょう。 これは日本に限った特殊な話ではありません。 ヨーロッパ諸国もアメリカも同じような歴史的変化を示しています。そのようなネガティブな変化は、次のような段階を経て進行するのでは、と私は考えています。 ①民主主義が弱体化し始める →  ②Triageが容認されてしまう →  ③Triage が民主主義の衰えを加速させる → ④医療倫理の崩壊が起きる。全く同じパターンが西・伊・仏・日・米で見られます。元々は軍の中で起こった絶対に望ましくない変化が、今度は各国の国民全体のレベルで起こる可能性が高くなってきているのです。

ここ以降は、話を少し変えて、元「言葉屋」(露・英翻訳者)の観点から、triageという言葉について書いてみようと思います。
先述の通り、もともとはフランス語で「選択すること」、「選別すること」という意味のtriage。英語でも、そうそう使う単語ではないと思います。もっぱら、重症患者に対して医療のリソースが不十分であることから、治療に優先順位をつける、という意味で極めて慎重に、そして軽く使われ始めないように配慮を込めて扱われています。

例えば、
Rescue workers performed triage on the wounded during a disaster drill.
災害訓練で、救助隊員たちは負傷者の救助に優先順位をつけた。

perform triage で「命の選別をする」という意味です。動詞に perform を使うと格調高い英語になります。文語体以外ではなかなか使いにくくなるのです。

また、「命の選別」「究極の選択」といった、著しい極限状況を言い表すのにも使われます。

Physicians are facing the prospect of large-scale triage that some say resembles the stark choices of war.
医師たちは、戦争のような厳しい選択に似ているとされる、大規模な命の選別を迫られている。

一方、triage は、極めて厳しい選択を迫られるという意味において、医療以外の文脈でも使われます。

The government needs to implement fiscal triage on its spending.
政府は、財政支出の取捨選択を行う必要がある。

ここでは、triage は財政支出の「取捨選択」という意味になりました。お分かり頂けていると思いますが、使い方も概念も非常に難しい言葉なのです。

簡単に「トリアージ」といっても、実際の英語で使うには、重い文脈に加えて、高度な英語の周辺知識とそれなりの品格も必要になります。日常的に使える言葉でもないし、また、軽々しく口にして欲しくはない言葉でもありますよね。それを「優先順位」などという、小学校の運動会で使われるような、薄っぺらで幼稚な言葉で置き換えたり、triageをそれっぽっちの概念で使ったりするのも、私はどうかしていると思っています。

不幸にして「一人ひとりの患者に最善をつくす」医療から、「できるだけ多くの生命を助ける」医療への転換が迫られる事態に至った場合でも、高齢である、持病がある、心身に障害があるといったことを命の線引きの基準にしない、というのは人間として当たり前のことではないのでしょうか。そういう議論さえしてはならない、と考えます。また、医療関係者に命の選別を強いるような惨い事態を起こさないためにも、国が、何もかも民間任せ、市場原理任せにするのではなく、必要な医療機器や医療用防護具、その他の物資、困窮者救済システムを整備することが最も急がねばならないことです。大切なことは、常に最悪の事態が起きることを想定し、そのようなときにもあまねくリソースが行き渡るような環境を維持することだと考えます。

『現実を良く見ろ。実際に感染が広がり過ぎて罹患者、発症者全員を救えないんだから、優先順位を付けられてもしょうがないだろう』
こういうことを言う人もいるだろうとは思います。

私も現実主義者です。表の現実も裏の現実も十分に注意深く見ています。しかし、現実とは、今目の前で繰り広げられている光景だけを指す訳ではありません。今の惨禍が生じた経緯、主要因、事実の裏面、反省点、今そして今後なすべきこと、将来への教訓などを冷静に、客観的に、そしてクリティカルに観て取って、その上で判断することこそが「現実を見る」ということではないのでしょうか。真の意味での。

もし、「今、こんな状況なんだから、triageで誰かに死んでもらうしかないよな」、ということなら、それではあまりにも人の命が軽すぎるとは思いませんか。
私は、自分の周りの誰にも、”優先的に“選別されて死んで欲しくはありませんし、そして私自身もそのような死に方は真っ平です。第一、私たちは戦時を生きている訳ではないのですから、この状況でも平時なのですから。


【筆者プロフィール】
古本 聡(こもとさとし)
1957年生まれ 脳性麻痺による身体障害1種1級
旧ソ連で約10年間生活。内5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、介助者の勧誘・コーディネートを行う。
大学卒業後通訳・翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年からユースタイルカレッジの重度訪問介護従業者養成研修統合課程での実習/講話を主に担当。
現在はユースタイルラボラトリー社員。
妻、娘の三人家族。