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コロナウイルスが伝えるもの~前編~

コロナウイルスが伝えるもの~前編~

安積遊歩



戦後の世界は凄まじいグローバリゼーションの下、人類始まって以来の自然環境破壊を行ってきた。それは都市的暮らしの中で極めて顕著で、私たちは自分たちが何を着、何を使い、何を食べているのかまったく見えない生活をしている。

幼い頃、私はご飯を食べる度に「米一粒に百姓は八十八夜をかけて大事に大事に育てる。おひさまと水と田んぼがあってこそのご飯だから、一粒だって捨てちゃいけない」と祖母によく言われたものだった。

祖母は明治生まれの人。私が14歳の時、彼女は亡くなった。しかし記憶の祖母は、それまでずっと着物を着ていた。その着物の洗濯の仕方も驚異的だった。1年に1回、洗い貼りという方法で行うのだが、その日は快晴でなければならない。その日の朝から、祖母は着物の縫い目を丁寧に全部解いた。そして、1枚の着物を数十枚の布にしていく。それを1枚1枚丁寧に洗い、糊を付け、板に貼って1日のうちに全部乾かし、また夕方には着物に仕立て上げていくのだった。

つまり、着物の下のじゅばんと腰巻(下着とパンツ)は1週間に1回は替えるが、上着であるところの着物の洗濯は1年に1回だった。その布も、蚕のマユを採って絹にして、布にしていた。私は小さい頃からそのプロセスを見ていたから、祖母の着物がどういうふうにして着物になったかを全部知っていたわけだ(ただ、絹だけで1枚の着物を仕立てるのは高すぎたため、彼女は綿糸で木綿も作っていたが、その記憶はまったくない)。蚕は今の若い人たちにはほとんど嫌われるようなグロテスクな虫ではあるが、その頃はお蚕様と呼ばれ、大切に育てられていた。

お蚕様の食べ物は、畑に実る桑の葉だ。祖母の家では、お蚕様の季節には、居間中に所狭しと、お蚕様と桑の葉がいっぱい入った箱がいくつもいくつも並べられた。その居間に隣接して、囲炉裏と広い土間があった。そこには、放し飼いに近い形で鶏が飼われていた。祖母の家に泊まった日の朝は、雌鳥が卵を産む時にあげる「コッコッコ」という声で目が覚めた。

その暮らしには、食べ物から着る物まで、すべての出所が明らかだった。暮らしのほとんどに、クーラーや電子レンジやパソコンもなく、さらに言えば、三種の神器とも言われた冷蔵庫、テレビ、洗濯機もまったくなかった風景。居間の電球も60whの裸電球で、唯一、雑音だらけのラジオが時々鳴っていた。

その時代は外に遊ぶ子供たちの声がよく聞かれたものだった。乞食も、不審者と呼ばれて排除されることもなかった。私たちの住んでいた市営住宅を周って、食べ物やささやかな額の金銭を分かち合ってもらっていた。街中では、傷痍軍人がアコーディオンを鳴らして施しを受けていたり、紙芝居とたくさんの駄菓子を積んだ自転車を轢くおじさんの周りでは、子どもたちが歓声を上げていた。今は、テレビの中の様々な人や事象を見て、多様性を知っている気になるが、私にとっては、あの幼い頃にあったそれの方がもっと豊かだったという感じさえする。

小学校の2、3年の頃、私の家に三種の神器が来た後からは、暮らしがどんどん変わっていった。そこから数年を経ることなく、祖母の家に、稲刈りや田んぼで、親戚や近所の村人たちが集まることもなくなった。田畑を流れていた綺麗な小川も泡だらけとなり、強い農薬散布も行われていった。

ところでコロナウイルスは、ウェイクアップコールと言われれている。目覚ましという意味だ。地球の隅々に及ぶ環境破壊をとめるための目覚ましである。現実に一節によれば、中国の環境破壊による毎年の死者は3万7千人〜5万5千人。今回コロナ対策で経済活動の大幅な減速があり、空や水が綺麗になったので、コロナウイルスによる死者は出ても、それ以上に助かった数の方が多かったに違いないとも言われている。日本でもテレワークや自宅待機ができた人の間では、今までの生活を見直す契機にもなったという 声もある。

コンビニやスーパーに並ぶ食べ物の、依って来るところを知らず、それでいながら日本は食料廃棄率世界第二位。食べ物の自給率は40%を切っている。つまり60%以上の物を輸入に頼り、それをまた捨てているというのだ。一方で、子どもたちの貧困率は上がり続けている。

そして、多様性を認め合うとは真逆のヘイトスピーチが、法律が作られてさえもネット上でとどまることを知らない。ホームレスの人々を不審者と呼んで毛嫌いし、さらにはコロナに罹った人たちに対するバッシングまで起きている。

どこまでも自然に感謝し、食べ物や食べることを大事にし、子供たちを可愛いがり、乞食さえもてなした、あの昭和30年代の暮らしはどこに行ってしまったのだろう。

しかし私は、その時代を懐古礼讃するだけのつもりはまったくない。あの時代には重い障害を持った人の命は、家庭の中で必死に隠されているか、あるいは思い余って殺されていたかの、どちらかだったろうから。そんな中少しずつでき始めた施設でも、ただただひたすらの隔離と虐待が続いていたのである。

日本は歴史的に障害を持つ人の存在を忌み嫌う。間引きや無理心中、水に流すという言葉の数々に、障害を持つ人たちがどれだけ殺されてきたかよくわかる。だからその反動もあったのか、障害当事者の解放運動への立ち上がりも早かった。

後編に続く


【略歴】
1956年、福島県福島市生まれ。生まれつき骨が弱いという特徴をもつ。22歳で親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介。障害者の自立生活運動をはじめ、様々な分野で当事者として発信を行なっている。
2019年7月、NHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。