優生保護法

日本で1948年に施行され、遺伝性疾患やハンセン病、精神障害などを理由に不妊手術や中絶を認めた法律。日弁連によると、全国で手術を受けた約8万4千人のうち、約1万6500人は同意なく不妊手術をされた。96年に「母体保護法」に改正され、優生手術の規定は廃止された。

優生保護法の趣旨:
「不良な子孫の出生を防止」などを目的に、1948年に施行された。遺伝性の疾患や精神障害、知的障害などと診断され、都道府県の審査会で「適当」とされた場合、本人の同意がなくても不妊手術ができた。96年に母体保護法に改正されるまで、現在、厚労省内で破棄されずに残っている資料によると、全国で少なくとも男女1万6475人が不妊手術を強いられたとされる。

優生保護法の2つの目的:
優生保護法は、2つの目的をもった法律だった。一つは「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」--病気や障害をもつ子どもが生まれてこないようにする、という意味。もう一つは「母性の生命健康を保護する」--女性の、妊娠・出産する機能を保護するという意味である。この2つの目的のために、不妊手術と人工妊娠中絶を行う条件と、避妊具の販売・指導について定めたのが、優生保護法である。

■「不良な子孫の出生防止」は、障害者への差別
障害者に対する差別は日本にも昔からあったが、18世紀にヨーロッパとアメリカに拡がった「優生学」を取り入れた結果、それは“近代的な科学”の裏付けをもって法律の形に現れた。法律に定めるということは、“障害をもつ子どもの出生は家族と社会の負担であり、本人の不幸だから、障害をもつ子どもを産む可能性のある人の生殖機能を奪ってもかまわない”といった障害者への偏見に満ちた考えを、国が表明したということになる。また、“子どもを産んでよい人”と“子どもを産んではいけない人”を、国が選別するということでもある。

日本において最初にできた法律は、障害者の断種を目的として1940年に成立した国民優生法だった。当時の日本は、世界大戦への道を突き進んでおり。兵士となる子どもを「産めよ殖やせよ」という時代で、避妊も中絶も不妊手術も、一般には許されていなかった。国民優生法は、「遺伝性疾患」をもつ人に限って、優生学的理由による不妊手術を行うことを認めた法律。しかし、本人の同意なしに不妊手術ができる条文があったものの実施されず、本人が同意した手術の件数も、目的に反して少なかった。国民優生法は断種よりもむしろ、一般の中絶をいっそう取り締まることに力を発揮したが、それでも、“障害をもつ子を産むかも知れない人は、断種して良い”という考え方を、国民の中に定着させた。

戦後の優生保護法も戦前の国民優生法も、不妊手術を優生手術と言い表している。単に妊娠をしないようにするだけではなく、優生学の目的に沿って行う手術だからだ。 優生保護法は、第二次大戦に敗れた日本が、戦前とは逆に人口の増加をくい止めるため、国民優生法をもとにして、中絶を許す条件と避妊の指導をつけ加えた法律である。しかし、優生政策は国民優生法でよりも、むしろ優生保護法の方で強くなった。

優生保護法は、優生手術の対象を「遺伝性疾患」だけでなく、「らい病」(ハンセン病)や「遺伝性以外の精神病、精神薄弱」に拡大し、本人の同意なしに優生手術を実施できるようにした。本人の同意がない優生手術は、1949~94年の間に、現在、厚労省内で破棄されずに残っている資料によるものだけでも、約1万6千500件が実施された。その68%は女性だった。また、国民優生法にはなかった優生学的理由による中絶の規定が設けられた。

優生保護法は、優生手術を「生殖腺(精巣、子宮、卵巣)を除去することなしに、生殖を不能にする手術」と決めており、それ以外の方法は禁じていた。にもかかわらず規定外のレントゲン照射や子宮の摘出が女性障害者に実施され、しかもこの違法行為は黙認されていた。優生保護法の目的「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」は、障害者から生殖を奪うことについて、人々がためらう気持ちをも奪ったのである。 優生保護法が1996年に母体保護法に改正された後も、こうした違法行為が続いている心配が未だにある。

優生保護法は一九九六年に母体保護法に改正され、強制的な不妊手術等の優生政策に関する規定は削除された。だが、優生保護法によって強制的に不妊手術を受けさせられた人たちに対して、社会がきちんとその非を認め、然るべき謝罪や補償をしないかぎり、優生保護法は本当の意味でなくなったとは言えないのではないか。

引用元: ウィキショナリー、 SOSHIRENサイト掲載資料