青い芝の会

青い芝の会(日本脳性マヒ者協会青い芝の会)

1957年(昭和32年)、東京都大田区にて高山久子、金沢英児、山北厚ら東京市立光明学校(現・都立光明特別支援学校)の卒業生約40名の身障者文芸誌『しののめ』同人が集まり「青い芝の会」として発足。発起人の山北が会長に就任する。現在も活動を続ける脳性マヒ者による障害者運動団体である。

当初、この会は、脳性マヒ者の交流や生活訓練、障害児教育、重度障害児・者施設の整備・拡充を求めることを主目的とする微温的な障害者親睦団体だったが、1960年代半ば頃から、横塚晃一、横田弘、小山正義、矢田龍司らにより、「青い芝の会神奈川県連合会」が発足(会長:山北、副会長:横塚、編集長:横田)。実質的な会の中心となり、後年有名になる重症児殺し告発運動、優生保護法反対運動、川崎駅前バス占拠闘争など、先鋭的な実力闘争を展開し、社会・思想色の強い運動団体に変貌していく。さらに、1970年代の激しい差別告発運動により、広く世に知られるようになった。その激しさ故に「過激集団」と呼ばれることもあった。

横塚と並んで青い芝の中心であった横田弘が起草した「行動綱領」は、障害者の「強烈な自己主張」として特に、障害者の意識のみならず、社会全体の障害者観に大きな影響を与えたと言えるだろう。

我らかく行動する
一、我らは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する
一、我らは、強烈な自己主張を行なう
一、我らは、愛と正義を否定する
一、我らは、問題解決の路を選ばない
横塚晃一著 『母よ!殺すな』1975年発行は、障害者運動のバイブル的書籍。ドキュメンタリー映画『さようならCP』原一男監督などもある。

一方、1970年台中頃、関西では健全者・介助者が中心となり、障害者の運動・自立生活に協力する団体として「自立障害者集団友人組織関西グループ・ゴリラ」が組織され、出版部門として「リボン社」を設立。しかし、ゴリラ内でリボン社が主導権を握る構図への反発が起きた。1977年、関西青い芝、ゴリラ、リボン社三者共同で事態の打開を呼びかけたが、1978年3月に全国青い芝の会は、ゴリラ、全国健全者連絡協議会を友人組織として認められないとして除名を通告した。その結果両会は解散し健全者の組織化は失敗した。同年3月27日、重度障害者の多い大阪青い芝の会はゴリラ解散に反対、関西青い芝の会を脱退しゴリラ存続を決定。が、その後の全国組織への混乱波及は免れなかった。

参考:
‐ ウェブリオ 
- 「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号「青い芝の会」初期の運動と人々