幼少期から10代までを振り返って

幼少期から10代までを振り返って

渡邉由美子



 私は、生まれた時から重度の肢体不自由を持っていて、床に座ることもできず、寝返りもできず、一般的にいえば寝たきりの身体状況なのです。でもとても明るく天真爛漫なこどもでした。たぶん姉がいたので姉の友達がイコール自分の友達みたいに日常的に家に来てくれていたので健常児の友達と遊ぶことも多く、そんな環境のおかげで、あまり障害を意識することなく幼少期を過ごしました。
今から考えれば無謀だったのですが、近所の公園に行ってジャングルジムにぶら下がったり、ブランコに座って子供が揺らしているうちに私は座っていられず下に落ちたりして怪我をし、地域で騒ぎになって母親が飛んで来ました。
そのまま病院に運ばれる様な事件もありました。

もともと座位が取れないので顔面から勢いよく落ちたりもしました。幸い骨折する事もなく受け身はその頃から上手かったと思います。そして駄菓子屋で着色料の沢山入ったどぎつい味のお菓子を買って食べて帰宅し、両親に「なんだ、その舌と口の周りは」等と言われ、怒られた記憶があります。何でも健常児の子供がすることは一通りやってみる、できないこともたくさんあってもその輪の中に混ざっていることがとても楽しかったことを今も鮮明に思い出します。

 そんな幼少期であったにも関わらず、就学問題で、自分の現実を認識せざるを得ない事態となりました。今でいう特別支援学校ですが(当時は肢体不自由児養護学校)、私が入学する昭和50年代前半は養護学校義務化前だったので、就学猶予が適応となり、学校に行くことができないのが当然の時代でした。今は普通学校に入りたい希望をもつ人達が県の教育委員会や入りたい学校と事前に話し合いをもって、望みを実現するという話をよく耳にします。私の時代は養護学校でも入れず、母親が運転免許をとって送迎から、学校にいる間の介助全てを行うことを条件に入学が認められる時代でした。授業中も母が隣にいて、私の身体が倒れてきたら直したり、黒板に書いてあることを写してかみ砕いて教えたりしてくれました。よく母親に「あなたが勉強しないと意味がないのよ?どこまで理解できた?」などと聞かれたものでした。その頃の養護学校にいた人たちは、全く立てない・歩けない人は少なく、何らかの補助具を使用すれば何とか自力移動ができる人が大半でした。私の教育は、数年後に決まっていた養護学校義務化に伴う重度障害児の受け入れを試すためのもので、よく試行的児童と呼ばれ、「あなたの家は家族が協力的だから受け入れられた」が教師たちの口癖でした。

 そんな中で子供の頃の楽しみは、近所の純喫茶のお店にたまに行って、テーブルがゲーム機になっているところにお小遣いを入れて飲み物を飲みながら、そのとき空前のブームのごとく流行っていたインベーダーゲームに没頭したり、家では「ゲームロボット9」という一つのゲーム機で音と光を使って番号を選ぶと数種類のゲームや作曲までできるという、その当時としては優れもののゲーム機をクリスマスや誕生日に買ってもらい、喜んで遊んでいたことを懐かしく思います。今のNintendo Switchの原型のような携帯型液晶ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」でも、夢中になって遊んでいました。燃えているビルから人が飛び降りてくるのを救急車まで運ぶ、三回バウンドさせないと落ちて人は死んでしまい、三人死ぬとゲームオーバーとなるという、ハラハラドキドキのスリルを味わいながら行うゲームでした。モノクロの液晶画面でしたが、その当時はとてもすごいものだと幼心に感じました。結構指先をこまかく動かさないとだめなゲームだったので、手がうまく動かなくて悔しくて泣いたり、うまく救助できて高得点を得られた時には歓喜の声をあげて一人で盛り上がっていたりしたのを昨日のことのように感じます。

養護学校は友達ができても、家が遠いうえに母親が送り迎えしてくれる余裕がなければ、友達と遊ぶこともままならない状況なので、ゲームやテレビがどうしても友達みたいになる毎日を送っていました。その間に母は、他の家族のことをしたり、祖父母と同居という環境だったので、精力的に家事をこなしていました。

今思うと、とても幸せなことに、温かい家族の愛情に包まれてすくすくと育った幼少期であったと思います。障害があるから姉と区別された経験もないし、家族で旅行に行った夏休みの思い出もいくつか印象に残っています。 両親は私の将来を案じたことは数限りなくあったと思います。でも、ハンディのために物理的に不可能なこと以外はごく普通にダメなことはダメと教えて社会性を豊かに育ててくれたことで、今当たり前のこととして普通の暮らしを選ぶ基礎ができました。地域で暮らすことが当然と考えられる志向が養われたと心から感謝しています。 敢えていうならば、家族は私を外出させるのに物理的や体力的に限界がありました。その為、健常者と触れ合わせる機会はどうしても少なく、そんな場面は日常ではなくイベント的にならざるをえない現実の中で、外出の機会を増やしたい願望・欲求がいまの暮らしのなかでの日々の活動や行動につながっているのだと思います。

 そして私に手がかかるので姉には寂しい思いをさせたことも多くあったと思います。父親も昔風の気質な人なので、亭主関白です。 母が私に付き添って家にいないとさぞかし不便で不自由を感じたことは数限りなくあったでしょう。 みんなに迷惑をかけましたが、そんな家族がいたからこそ、今の私がいます。 家族に限らずこんなにたくましく私を成長させ、地域で一人暮らしを可能とする土台を作ってくれたすべての人たちに感謝しています。ありがとうございます。

これからも明るく楽しく前向きに、暮らし続けていきます。

渡邉由美子
1968年6月13日生まれ 51歳
千葉県習志野市出身
2000年より東京都台東区在住
重度訪問介護のヘルパーをフル活用して地域での一人暮らし19年目を迎える。
現在は、様々な地域で暮らすための自立生活運動と並行して、ユースタイルカレッジでの実技演習を担当している。

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