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勉強の弊害〜感覚を殺すな〜

勉強の弊害〜感覚を殺すな〜

間傳介



私たちは、オギャーと生まれてこの方、「勉強せい」と急き立てられることが多々あります。

私たちは、親に始まり保育園から職場、テレビや社会を含めた他者に「こうしたほうがよい」とこちらが納得するかどうかは置いといて、変容を求められます。

一方で、元々特別なオンリーワンという能天気な響きも、まだまだムードとしてあることで堕落しようとすればどこまでも堕落できる。花屋の花は無選別ではない。堕落の見本も、テレビやネットでいくらでも見つけられる。そうして勉強しない自分を慰撫することができる。

かといってどこか「勉強せよ」という言葉は、自身の深い部分での納得がそうさせるのか心の奥底に魚の骨が喉に引っかかるように残り、インターネットで

「力無きものの脱力は単なる“無力”だ」

との言葉を見つけて、寝汗をかいたように心が飛び起きることもしばしば。

手にした携帯電話には“アプリ”をインストールすることができる。
自分には「何が」インストールされているのか。

こんな記事を見つけた。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/01/post-92074.php

「人間は使う道具の、道具が受け取る刺激を感知する能力がある」と、リヨンの学者が発表したとのことである。

私は「当たり前じゃないか」と思った。

身体感覚の拡張性と名前がついていただろうか。私の習った理科か何かの教科書にも天秤棒を担ぐ人の絵が載っていて、自分が持つ棒の先が、何かに当たっているか、当たっているけどこのまま進んで行っても支障が出ない程度だとか、いったん止まらなければいけないかとかそういうことがわかるのは、人間に元々備わった機能ではないか。何を今更とさえ思う。

しかし同時にハッと気づく。物事が上手くいく時はこの感覚が生きており、この感覚が内包されない状態では、この感覚は機能していないのではないか。

自動車を運転していて、日頃はなんということもなく通う道であるのに、ある日急に慣れたカーブで難しさを感じたり、危ない目に遭うことがある。

違和感を感じる回数は、違和感を感じない回数より少ないのだろうか。少なくとも「意識」に登ってくる回数は少ないのだろうが、脊髄や脳幹は、日常的に違和感を察知していたのかもしれない。

車の話が出たので継げば、交通事故というのは、ブロック塀なども含めて相手がいることである。相手がいるということは自分がいる。

道路に出ると、周りの車に乗る人や、道を歩く人の、いく先や運転する動機は分からないにしても、どっちに行きたがっているかということは程度の差こそあれ、わかっているとき、交通事故は起きない。

事故が起きるのは読み間違えたときである。危ないと思って、止まるなり避けるなりできるときは、危ないけれど流れを捉えている。
事故はそれができないとき、生まれるのだ。

そのとき、「周囲の動きを把握していないという自分」に気づいていない。

自分の天秤棒を持つ手の力加減に、知らず知らずのうちに変化が生じていたのだろう。

もう亡くなってしまったと人伝てに聞こえてきたが、あるALSの方のお宅にお邪魔してその方の手を取ったとき、「この手を待っていたんだよ」と仰って頂いたことがあった。

私の家内には「あなたは喜んでいるときが判りにくい」と言われるが、きっとお言葉頂戴したとときも、嬉しいんだか嬉しくないんだか、判然としない顔をしていたのではないかと思うが、その瞬間の、自分の力加減とその方の手の重みや床の反発を、飾り棚のガラスが映すキッチンの明かりを今でもありありと思い出す。

あの人はそうやってまだ、私を勇気づけてくれる。

私はあのとき、少しホッとしていたのではないか。と、今では思う。




間傳介 プロフィール

1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長