第7回 「世話」から「ケア」へ、家族からヘルパーそして利用者へ
私は鼻炎持ちで、ちょうど今の時期は抗アレルギー薬を服用するため、少しぼーっとした状態で仕事や買い物に出かけることがある。いつもよりも電動車椅子の操作に集中しなければと、気合を入れ直す日々を送りながら、秋の訪れを感じる。また、外から我が家に入って来るヘルパーの手が冷たくなってくると、冬が近づいていることがわかる。このようにちょっとしたことからも、時が過ぎて季節が変わっていることを感じるのだ。英語のことわざにTime devours all things.(時はあらゆるものを食い尽くす)というものがあるが、まさに時間はあらゆるものを変化させる。私の自宅での生活にも、過去に何度か大きな変化があった。今回はそのことを振り返り、障害のある利用者が自宅での暮らしを続けるために必要なことについて考えてみたい。
私の両親は、「できるだけ障害のない子と同じ経験をさせてあげたい」という方針のもと、できうる限りのことをして、全てを注いでくれた。日々の世話はもちろん、私の通院や通学に合わせてためらわず引っ越すなど、まさに私中心の生活をしてくれたのだ。初回のコラムに書いたが、私が2003年の終わり頃にヘルパーのケアを利用し始めたのは父の病気がきっかけだった。入浴や外出など、物理的に力を必要とする世話ができなくなったため、必要に迫られての導入となった。それから6~7年は、母だけでは難しくなった世話を補うという位置付けでケアを頼んでいた。2006年に父が亡くなった後もその位置付けは変わらず、私も母もそのやり方で問題ないと考えていた。
しかし、2010年の夏に母が脳梗塞を発症したことで事態は一変してしまった。当時、私のケアに関わっていたのは3事業所で、いずれも食事や入浴などピンポイントのケアだった。母が入院とリハビリで家にいなければ、私の自宅での生活が成り立たなくなってしまう。即座に全事業所に相談したところ、そのうちの1つが「全面的にサポートするシフトを組むから1ヶ月待ってほしい」と手を挙げてくれたのだ。それまでの間は、ともに80代だった母方の祖父母が交代で私の家に泊まり、ポイントで来るヘルパーを迎え入れながら私の世話をしてくれた。そのおかげで、シフトが出来上がるまでの間も、私はなんとか自宅で過ごすことができたのである。今の原型となったシフトができあがってからは、土日は引き続き祖父母の協力を仰いだものの、平日は私とヘルパーだけでなんとかやっていけるようになった。初めのうちは家のどこに何があるのかわからないような体たらくだったが、徐々に慣れていくことができた。試行錯誤する中で私は、この生活スタイルは単に母の留守を預かっているのではなく、自分が決めてつくっているのだと感じ始めた。そして、秋も深まった頃母はリハビリを終えて退院した。右半身に麻痺が残ってしまったため、私のケアは引き続きヘルパーを軸にし、母が部分的にサポートするというスタイルに変わっていった。こうして、私の日常を支える担い手のバトンは、両親から祖父母へ、そしてヘルパーへと、辛うじてではあったがつながったのである。2013年ころからはケアマネージャーにも関わってもらいながら、対外的な活動がより柔軟にできる体制を少しずつ整え、今に至る。
このように、障害者が自宅での生活を続けるためには、家族による「世話」からヘルパーによる「ケア」への移行という、乗り越えなければならない壁がある。しかし皮肉なことに、家族がそれまで本人の世話に心血を注いでいるほど、移行するタイミングは遅れがちだ。私の場合、両親の病気という“外圧”によるギリギリの移行となってしまい、これは褒められたものではない。父と母が病気になった時期がずれていて、母が脳梗塞を発症した際に祖父母がともに元気で、当時の事業所が全面的なシフトを組むと手を挙げてくれた・・・どれか1つでも違っていたら、私は施設で生活することになり、今のように社会参加することはできなかっただろう。私の今の生活があるのは、これまで関わってくれたすべての人のおかげだ。特に、2010年頃の窮地を救ってくれた祖父母やヘルパーにはいくら感謝してもしきれない。今回掲載した写真は、親戚の結婚式のときに撮ったもので、祖父母と母と私が写っている。祖父は2014年に亡くなったが、祖母は健在で今はサービス付き高齢者住宅で暮らしている。
利用者の日常を支えるために、多くの人によってバトンがつながれている。そのバトンには、家族をはじめそれまでに関わった人の思いが込められているのだ。介護事業者やヘルパーが一人の利用者に関わる期間は限られているが、次の事業者やヘルパーに引き継ぐまで、大切にそのバトンをつないでほしい。そして、利用者がヘルパーの「ケア」を受けて生活するということは、自らが考えて主体的に生活を組み立てていくということだ。それはすなわち、自立していく過程といっていい。家族からヘルパーにつないだバトンは、実は利用者本人に渡されているのだ。そのバトンを持って人生をどのように歩むのかを決めるのは、他ならぬ利用者自身なのである。私はこれからもヘルパーと協力しながら、両親と祖父母が大切につないでくれたバトンを持って、自分の経験を社会に還元する仕事をできる限り長く続け、私なりの人生を堂々と歩んでいきたいと思っている。できることならその途中で、人生を共に歩む女性と出会いたいものだ。
加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。