利用者・加藤拓の経験”知”

加藤 拓


第24回 私たちとルール ~ルールを機能させるために必要なこと~

私はどのスポーツも見て楽しめるタイプで、特に野球とサッカーはどちらも好きだ。昨年のワールドカップは日本代表の活躍もありとても楽しかったし、今年のWBCも楽しみである。ただ、バスケットボールだけは楽しみ方がよくわからない。動きが早すぎてついていきづらいのと、ルールが細かくて難しいのが理由だ。別に何秒ボールを保持しても、シュートしなくてもいいじゃないかと思ってしまうのだが、バスケに詳しい友人に「それだとリードしたチームがずっとボール回しして試合が終わっちゃうでしょ!」と言われて、なるほどと思った。よく考えられているものである。

日本人は世界の中ではとても規律を重んじて、ルールを守る国民性だとよく言われる。スポーツでは代表選手やチームが、ファウルが少ない“フェアプレー賞”をもらう機会をよく目にする。スポーツにおいては清々しい戦いぶりだが、社会においては一歩間違えるとルールを守ることばかりにとらわれてしまうことも多い。
そこで今回は、ルールというものについて考えてみたい。そもそもルールとは何のためにあるのかと聞かれて、パッと答えられるだろうか。どこかに答えが載っている類の問いではないが、私自身の答えを書くならば、

ある集団が目的を達成するために、そこに関わる、あるいは属する人々が守るべき事柄

となる。例えばある国に生きる人のルールとして社会を公正かつ安全に保つため、法律というルールが存在する。また、スポーツには競技を安全に行い、かつ魅力的なものにするためにルールが定められている。ここで強調したいのは、本来、ルールには必ず目的があるということだ。

しかし、目的とそのためのアプローチがきちんと整理されているルールばかりではないことも事実だ。中学高校の校則には、多くの人が思春期の自分との間で葛藤したことだろう。私が通っていた中学校には当時、男子は冬でもコートを着てはいけないというルールがあった。今でいう「ブラック校則」である。
私は自力で歩けず車椅子に座ったままゆえ、とても寒くて体調を崩してしまうという理由を盾に学校と交渉し、特例で認めてもらったのだった。冬になるとクラスメイト達から向けられる羨望の眼差しを思い出すと、今でも心がむず痒くなる。
そもそも校則は、生徒の人格形成など教育の目的を達成するためという建前で決められているそうだが、冬にコートを着ることが教育の妨げになるとは到底思えない。合理的な理由を説明できる人は、まずいないだろう。ちなみに現在は、黒や紺など色の指定はあるもののコートを着ることは認められている。目的とそのためのアプローチが合っていないのだから、当然の変更だろう。

また、ルールを守ることだけにとらわれないことも大切だ。私は母と同居しているが、母も脳梗塞の後遺症により右手が使えず、一部ヘルパーのケアを利用している。同居している親子がともにケアを利用するという例はあまり多くないらしく、5、6年前までは事業者側にも戸惑いが見られた。
平日の午前中、母はリハビリに通い私はスーパーに買い物に行く。そして夕方のケアでは母がヘルパーと協力して夕食の準備をするのがパターンだ。しかし、「拓さんのケアに来ているのに2人分の買い物や調理をするのはおかしい」と主張してくる人もいたのである。ケアは本人に対するものという原則があるため、それは間違いではない。同居家族へのサービスをなし崩し的に認めるべきではないのは、私もそう思う。ただ、このような杓子定規な解釈でケアを制限されては日常生活が立ち行かない。私と母の要望をもとにケアマネージャーと区役所、事業所が話し合い、常識的な範囲内で幅を持たせたケアでよいということが確認された。
母も要介護認定を受けた利用者であることと、私と母の生活を厳密に切り分けることは不可能との判断からである。ただし、夕方は母のケア(介護保険)での調理、配膳と私のケア(障害)をつなげて行うことで、親子のケアをまとめて行うという形をとることになった。これなら制度上もおかしくはないし、ケアの趣旨から大きく外れることもないだろう。ただルールを守るだけでなく、目的を達成するためにルールをどう活用するかという視点も大切なのである。

ここまで考えてきたことをふりかえると、ルールがきちんと機能するためには条件があることがわかる。それは

・関わる人々が、その目的を共有すること
・目的と、そのためのアプローチが噛み合っていること
・その趣旨を大切にしながら、個々の事情を鑑みて柔軟に運用すること
・社会や状況の変化に応じて不断の見直しを行うこと

の4つである。私たちが関わるルールはたくさんあるが、これらすべてを満たして機能しているものは、いったいどれだけあるだろうか。前からずっとそうだったからとか、多くの人がそうしてきたからという理由で残っているものは機能不全を起こしている可能性が高い。教育や介護だけでなくどの分野にもあるだろうし、社会全体にもあるだろう。繰り返すが、ルールとは目的を達成するためにつくり、使うものだ。ルールを定めたり見直したりすることは、私たちが属する集団や社会が何を目指し、どうありたいかを考えることでもある。今あるルールに疑問を投げかける人に対して、日本人は往々にして理屈っぽいとか面倒くさいという目で見がちだ。
しかし、このように原点に立ち返る作業から進むべき方向が見えてくることも多い。私たちがよりよい集団や社会をつくるために逃げてはいけない、必要なプロセスなのである。2年続けてきたこのコラムでもルールに疑問を呈したことが何度かあったが、皆さまが考えるきっかけとなるのなら、私はこれからも喜んで面倒くさい人になろうではないか。

加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。

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