「一生の間に80%の人が悩まされ、経済損失は3兆円」という試算を、東大と日本臓器製薬が発表した。
腰痛は、程度の差こそあれ、ごく一般的なものであるとわかるが、
特に介助・介護に携わる人間には付き合いの長いものになりがちなもの。
私もご多分に漏れず、強烈な腰痛を幾度か体験し、慢性的な腰痛を持っているので、
今回はそのことについて少し書かせていただきたい。
——————————————-
私が大変な腰痛に初めてなったのは、1999年の8月。
娘が北海道の友人宅で骨折をし、そこで一ヶ月近くの療養をした際のことであった。
北海道の夏がとても暑く、記録的猛暑の年であり、暑い中での看病をした記憶がある。
当時まだ4歳であった娘が、猫じゃらしで猫を追っかけてよちよち歩いていた際、
部屋と部屋の間に敷かれていた、薄い木のでっぱりにひっかかって、転んでしまい、骨折。
骨が弱い体質であると、ちょっとしたことで骨折をすることがあるが、
その時も、楽しく猫と戯れていたところからの骨折でかわいそうであった。
友人宅は北海道の北の田舎町で、
地元ならばたくさんの友人や介助者がいてくれるところが、
全くそのような助けがない。
私と連れ合い、そしてその友人だけで、看病を続けた。
時折、遠方から友人たちが助けに来てくれたのはありがたいことだった。
骨折はだいたい2週間ぐらい、かなりの痛みが続き、
概ね回復するまでだいたい1ヶ月かかる。
7月の末に骨折してからほぼ丸一ヶ月かかって、
8月下旬に車で札幌でまで移動できるぐらいに回復した。
骨折をすると、我が家の場合、ギブスでは固定せず、
「シーネ」という固定具を弾性包帯(伸縮性の包帯)で巻いて、安定状態をつくる。
ギプスは、母である骨折を幾度も体験してきた安積が、
幼少期に大変つらい思いをしてきたことから、一度も娘にはしたことがない。
私は、弾性包帯を巻く作業がかなりうまくなったのだが、
それでもやはり、痛い骨折箇所を動かさざるを得ず、
涙する娘の包帯交換を、できるだけすばやく、痛くないように行う必要があった。
介助やケアに全集中すると、自分の体のことなど目に入らない。
また、当時の私はまだ腰痛を経験していなかったので、自分の体のケアなど眼中になかった。
しかし、一ヶ月、概ね自分が包帯の巻き直しや、かがんだ状態での介助を続けることで、
少しずつ腰痛の慢性化は進行していたことが、後で分かることとなった。
骨折も概ね良くなり、札幌へ帰る車の中で、少し腰に違和感は覚えていたものの、
道中、皆で温泉に入ろうと、車を降りる動作をした時、
激しい痛みが稲妻のように走り、私は助手席から動けなくなった。
あまりの痛みだったので身動き取れなくなった私に、友人が普段行っている鍼を紹介してくれ、
札幌についたら、そのまま鍼灸院へ直行。
一歩動く度に激痛が走るので、階段を友人に肩を借りながらやっとのことでたどり着いた。
鍼灸を受けるのは初めてで、
男性の院長と思しき方から、「服を全部脱いで横になってください」と指示を受け、
「いてててててて。。。。」と頑張って服を脱いでいったところ、
パンツまで脱ぎかけている私に「下着は脱がなくて大丈夫です!」と慌てた院長。
「全部って言ったのになあ。。」と激痛の中パンツを履き直したのは、恥ずかしさと痛さが入り交じる笑い話となった。
——————————————-
それから私が動けるようになるまで1週間かかった。
トイレに行くにも這ってゆき、
激痛に耐えながら、便座によじ登って這い上がる必要があり、本当に困難な体験であった。
しかし一方で、その激痛の中、奇妙なことに、私の中に一つの安堵があった。
それまでの暮らしの中で、当時の連れ合いの安積から、
「あんたは自由に動けて、(家族の中で)一番楽だ」と折々に言われていたので、
一定の罪悪感を抱えていた。
その日々の末に、激しい腰痛になって寝たきりとなり、
家族の中で最重度障害者にとうとう一時的になったので、
「自分も別に楽して怠けてたわけじゃなかったなあ」という安堵感だった。
少しわかりにくい安堵感ではあるが。。
しかし、倒れている私に「あんたは倒れてるだけでいいんだからいいよね。
私が倒れてたら、介助者探しに奔走しなくちゃならないから、あんたはいいご身分だよ」
と畳み掛けてくるのだから、おちおち倒れてもいられない。
人的リソースが常に必要な暮らし(介助の必要な生活)の中では、
人間、余裕がなくなりやすい。
余裕が無い中では、互いに厳しくなりがちだ。
世の中に介護苦心中や殺人などが起きるのは、肌感覚として理解できる。
我が家にも、多くの友人や介助者がいてくれなかったらば、
また、重度訪問介護の制度などがなかったらば、
確実にもっとシビアな現実が生じ、生命の危機があったことだと思う。
ともあれ、私は一時的な寝たきりとなって、
初の一時的重度障害者の地位を勝ち取り(?)、
激痛は、「自分は怠け者ではなかった」という証明書のようでもあって助かった面があった。
奇妙な話ですが。
繰り返すが、介護状況のシビアな中では、個人の資質というより、
余裕の無さから、言動が荒くなることがしばしばある。
私も今はまったく日々怒鳴ったりすることはないが、
安積と暮らしていた時期の後半は、毎日怒鳴り合いの喧嘩をしていたと、
当時を知る友人知人たちから教えてもらい、
「そういえば、そうだったよねえ」と思い出す。
腰痛という症状は、ある種、私の内面の代弁者だった面もあったかもしれない。
——————————————-
東京でお世話になった鍼の先生からは「こりゃ、70代の腰だね」と20代の私は通院の度に笑われていた。
腰痛は特に、左側に大きなしこりがあった。
骨の折れやすい娘をいつも、利き腕の右手で安定的に抱っこしていたので、
左の腰がそれを斜めに支えていた、という状態だったようだと後でわかった。
未だに、十分なケアをできていないので、左の腰にはまだ深く大きめのしこりがある。
娘も自立して離れて暮らすようになってもう8年になる。
私も、そろそろ本格的に腰を直さないといけない。
娘はとてもいい感じに育ってくれて、
私は自分が怠けているわけじゃない、と証明などしなくて良い日々になっているのだし。
ただ、鍼灸などに通うのはそこそこお金がかかるので、
ビンボーぐらしを続けてきた私にはやや荷が重いから、
あまりお金をかけずに回復する道を見つけねばな、というところ。
介護家族の貧困を地で行くような暮らしをしてきたこの20年ほどであった。
【略歴】
1972年神戸生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中に障害者運動の旗手の一人である安積遊歩と出会い、卒業後すぐに安積と同じ骨の弱い障害を持つ愛娘宇宙(うみ)を授かる。猛烈な家事育児介助とパートナーシップの日々は、「車イスからの宣戦布告」「女に選ばれる男たち」(共に太郎次郎社刊)に詳しい。資格持ちヘルパーとして長年介助の仕事をしながら、フリースクール運営や、Webサイト作成・システム構築業に従事。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、「こどもみらい測定所」代表、全国の測定所のネットワークの「みんなのデータサイト」事務局長・共同代表を務め、放射能測定・対策活動に奔走。2018年初頭からユースタイルラボラトリー・土屋訪問介護事業所の社内システムエンジニアとなり、長いケア領域の経験とWeb関連技術のスキルを生かして活動中。安積とは紆余曲折の末パートナーシップを解消し、今は新家族と猫と暮らす日々。
腰痛は、程度の差こそあれ、ごく一般的なものであるとわかるが、
特に介助・介護に携わる人間には付き合いの長いものになりがちなもの。
私もご多分に漏れず、強烈な腰痛を幾度か体験し、慢性的な腰痛を持っているので、
今回はそのことについて少し書かせていただきたい。
——————————————-
私が大変な腰痛に初めてなったのは、1999年の8月。
娘が北海道の友人宅で骨折をし、そこで一ヶ月近くの療養をした際のことであった。
北海道の夏がとても暑く、記録的猛暑の年であり、暑い中での看病をした記憶がある。
当時まだ4歳であった娘が、猫じゃらしで猫を追っかけてよちよち歩いていた際、
部屋と部屋の間に敷かれていた、薄い木のでっぱりにひっかかって、転んでしまい、骨折。
骨が弱い体質であると、ちょっとしたことで骨折をすることがあるが、
その時も、楽しく猫と戯れていたところからの骨折でかわいそうであった。
友人宅は北海道の北の田舎町で、
地元ならばたくさんの友人や介助者がいてくれるところが、
全くそのような助けがない。
私と連れ合い、そしてその友人だけで、看病を続けた。
時折、遠方から友人たちが助けに来てくれたのはありがたいことだった。
骨折はだいたい2週間ぐらい、かなりの痛みが続き、
概ね回復するまでだいたい1ヶ月かかる。
7月の末に骨折してからほぼ丸一ヶ月かかって、
8月下旬に車で札幌でまで移動できるぐらいに回復した。
骨折をすると、我が家の場合、ギブスでは固定せず、
「シーネ」という固定具を弾性包帯(伸縮性の包帯)で巻いて、安定状態をつくる。
ギプスは、母である骨折を幾度も体験してきた安積が、
幼少期に大変つらい思いをしてきたことから、一度も娘にはしたことがない。
私は、弾性包帯を巻く作業がかなりうまくなったのだが、
それでもやはり、痛い骨折箇所を動かさざるを得ず、
涙する娘の包帯交換を、できるだけすばやく、痛くないように行う必要があった。
介助やケアに全集中すると、自分の体のことなど目に入らない。
また、当時の私はまだ腰痛を経験していなかったので、自分の体のケアなど眼中になかった。
しかし、一ヶ月、概ね自分が包帯の巻き直しや、かがんだ状態での介助を続けることで、
少しずつ腰痛の慢性化は進行していたことが、後で分かることとなった。
骨折も概ね良くなり、札幌へ帰る車の中で、少し腰に違和感は覚えていたものの、
道中、皆で温泉に入ろうと、車を降りる動作をした時、
激しい痛みが稲妻のように走り、私は助手席から動けなくなった。
あまりの痛みだったので身動き取れなくなった私に、友人が普段行っている鍼を紹介してくれ、
札幌についたら、そのまま鍼灸院へ直行。
一歩動く度に激痛が走るので、階段を友人に肩を借りながらやっとのことでたどり着いた。
鍼灸を受けるのは初めてで、
男性の院長と思しき方から、「服を全部脱いで横になってください」と指示を受け、
「いてててててて。。。。」と頑張って服を脱いでいったところ、
パンツまで脱ぎかけている私に「下着は脱がなくて大丈夫です!」と慌てた院長。
「全部って言ったのになあ。。」と激痛の中パンツを履き直したのは、恥ずかしさと痛さが入り交じる笑い話となった。
——————————————-
それから私が動けるようになるまで1週間かかった。
トイレに行くにも這ってゆき、
激痛に耐えながら、便座によじ登って這い上がる必要があり、本当に困難な体験であった。
しかし一方で、その激痛の中、奇妙なことに、私の中に一つの安堵があった。
それまでの暮らしの中で、当時の連れ合いの安積から、
「あんたは自由に動けて、(家族の中で)一番楽だ」と折々に言われていたので、
一定の罪悪感を抱えていた。
その日々の末に、激しい腰痛になって寝たきりとなり、
家族の中で最重度障害者にとうとう一時的になったので、
「自分も別に楽して怠けてたわけじゃなかったなあ」という安堵感だった。
少しわかりにくい安堵感ではあるが。。
しかし、倒れている私に「あんたは倒れてるだけでいいんだからいいよね。
私が倒れてたら、介助者探しに奔走しなくちゃならないから、あんたはいいご身分だよ」
と畳み掛けてくるのだから、おちおち倒れてもいられない。
人的リソースが常に必要な暮らし(介助の必要な生活)の中では、
人間、余裕がなくなりやすい。
余裕が無い中では、互いに厳しくなりがちだ。
世の中に介護苦心中や殺人などが起きるのは、肌感覚として理解できる。
我が家にも、多くの友人や介助者がいてくれなかったらば、
また、重度訪問介護の制度などがなかったらば、
確実にもっとシビアな現実が生じ、生命の危機があったことだと思う。
ともあれ、私は一時的な寝たきりとなって、
初の一時的重度障害者の地位を勝ち取り(?)、
激痛は、「自分は怠け者ではなかった」という証明書のようでもあって助かった面があった。
奇妙な話ですが。
繰り返すが、介護状況のシビアな中では、個人の資質というより、
余裕の無さから、言動が荒くなることがしばしばある。
私も今はまったく日々怒鳴ったりすることはないが、
安積と暮らしていた時期の後半は、毎日怒鳴り合いの喧嘩をしていたと、
当時を知る友人知人たちから教えてもらい、
「そういえば、そうだったよねえ」と思い出す。
腰痛という症状は、ある種、私の内面の代弁者だった面もあったかもしれない。
——————————————-
東京でお世話になった鍼の先生からは「こりゃ、70代の腰だね」と20代の私は通院の度に笑われていた。
腰痛は特に、左側に大きなしこりがあった。
骨の折れやすい娘をいつも、利き腕の右手で安定的に抱っこしていたので、
左の腰がそれを斜めに支えていた、という状態だったようだと後でわかった。
未だに、十分なケアをできていないので、左の腰にはまだ深く大きめのしこりがある。
娘も自立して離れて暮らすようになってもう8年になる。
私も、そろそろ本格的に腰を直さないといけない。
娘はとてもいい感じに育ってくれて、
私は自分が怠けているわけじゃない、と証明などしなくて良い日々になっているのだし。
ただ、鍼灸などに通うのはそこそこお金がかかるので、
ビンボーぐらしを続けてきた私にはやや荷が重いから、
あまりお金をかけずに回復する道を見つけねばな、というところ。
介護家族の貧困を地で行くような暮らしをしてきたこの20年ほどであった。
【略歴】
1972年神戸生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中に障害者運動の旗手の一人である安積遊歩と出会い、卒業後すぐに安積と同じ骨の弱い障害を持つ愛娘宇宙(うみ)を授かる。猛烈な家事育児介助とパートナーシップの日々は、「車イスからの宣戦布告」「女に選ばれる男たち」(共に太郎次郎社刊)に詳しい。資格持ちヘルパーとして長年介助の仕事をしながら、フリースクール運営や、Webサイト作成・システム構築業に従事。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、「こどもみらい測定所」代表、全国の測定所のネットワークの「みんなのデータサイト」事務局長・共同代表を務め、放射能測定・対策活動に奔走。2018年初頭からユースタイルラボラトリー・土屋訪問介護事業所の社内システムエンジニアとなり、長いケア領域の経験とWeb関連技術のスキルを生かして活動中。安積とは紆余曲折の末パートナーシップを解消し、今は新家族と猫と暮らす日々。