「たまたま」

野呂 一樹


今土屋訪問介護事業所で介護をさせていただいているのは、一言で表現するなら「たまたま」

初めて介護に携わったことは、祖父の介護だった。小学高学年時に祖父が認知症になった。
まだ小・中学生だった自分が認知症の祖父の介護をする・・・ということはほとんどなく、ボケてきた祖父の話し相手・歩き回っている祖父を家に連れて帰ってくる、ということが主な担当だった。実際の介護は、祖母や母が担っており、家の中がおしっこ臭く、また家族が常にピリピリしていることがよくわかった。自分としては介護中の家族とはこんな感じになるのか、と漠然と考えていた。
祖父は認知症発症から10年ほどで亡くなり、その間に自分は、小学生から大学生になっていた。

大学は、祖父の影響・・・というわけでもなく、自分の頭では国立大学には行けず、ただ家から通える範囲で、将来食うに困ることがなさそうな近くの大学の社会福祉学部に入学をしていた。

就職の際も、ありがたいことに就職氷河期と言われる時代・リーマンショックの間、いろいろなところでまだ就活生が選べる時代だった。
社会福祉学部にいたから福祉系、というわけではなく、様々な職種の企業に応募・いくつか内定をいただいていた中で、たまたま福祉の公務員系の仕事に採用されたため、そこに就職することにした。

ここの採用試験は、結果として自分の同期は自分を含めて3名採用されたが、一次試験の際には100名以上がいた。
自分はこの人数を見て、受かるとは一切考えておらず、また他にも内定が決まっていたため、まともに試験をしなかった。今だから言えるが、この一次試験で開始直前まで机で寝ていて、隣に座っていた受験生に起こしていただいた。最初の説明を一切聞いていなかったのでわからないなぁと思いながら一次試験に臨んでいた記憶がある。なぜか一次試験に合格し、二次試験で起こしていただいた方に御礼を言おうと思ったが、彼女は二次試験にいなかった。んとも申し訳ない気持ちになったことは今でも昨日のように思い出される。


選んだ会社では、低所得者層の支援、福祉施設職員研修、高齢者の地域活動支援、各種福祉団体の支援、災害ボランティア活動の支援等をしていた。特に児童・保育関係はたくさん勉強をし、ボランティアにも何度も足を運んだ。個人的に一番楽しかったのは、事業所を抜け出し子どもたちや障害者の方と遊んでいたことがとても本来の自分として過ごせていたように思う。
障害者団体の支援では、就労・知的・入所等様々な関係の方々とお話ができ、イベント等に声をかけていただけるようになっていた。
その間に国では制度がいろいろ変わっていったのがすごく面白かった。保育分野では子ども・子育て支援新制度、障害分野では自立支援法から総合支援法など、従来通りとどう違うようになるのか、行政担当や各種団体の長、現場の方々、たくさんのお話を伺うことができた。
この時に難病の方も障害の分野に新しく対応することになった。ただ、新しすぎて担当時点で関わることができなかったが・・・

退職をし、近くの仲良くしていただいていた施設でバイトをし、自宅で祖母の介護等が落ち着いたため、自分の新しい就職先を考えることになった。
せっかく福祉系にいたのだから福祉系でもよかったのだが、ここでも特に考えず、何かおもしろいことやりたいなぁと考えていたところ、たまたま土屋訪問介護事業所と出会った。若い企業・県内では有名でない福祉系の企業・給与、そして何より前職で関わったことがなかった難病支援ということで、こちらに応募をし、採用をいただき今に至る。


土屋訪問介護事業所でお世話になり、少ししてから「一言で表わすと偶然性」との言葉を初めて聞いたとき、自分が土屋訪問介護事業所でお世話になり介護をしているのはもしかして奇跡なのではないか。と考えるようにすらなってきている。


ご覧いただいた通り、介護をやりたくて介護をしているわけではなく、本当にたまたま介護をしている、と自分は考えている。

あの時、家から通える範囲の大学が他にもあれば
あの時、隣の方に起こしていただいていなければ
あの時、国の制度がかわっていなければ
あの時、他におもしろい企業が見つかっていたら

自分は介護していなかっただろうなぁ・・・



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