祖母を偲び、思うこと

近藤 優美



「生」と「死」とは。今は亡き女優、樹木希林さんの言葉を借りていえば、「生きるのも日常、死んでいくのも日常」である。
 たしかに、生きることも死ぬことも、自然界の摂理、生の秩序である。人は、この世に生まれた瞬間から、確実に死へと歩んでいる。だが、私たちはその日常を忘れがちである。そして、身近な人を亡くした時ほど「生」と「死」を意識することはないだろう。

 4年前の6月16日、享年91歳で母方の祖母が亡くなった。直接の死因は、子宮体癌だが、晩年は認知症を発症しており、高齢者施設へ入所していた。
 祖母は、4人姉妹の末っ子で、とても大事に育てられたそうだ。また、学もあったため、プライドがたかかった。それが災いしたのか、祖父と口論していた光景が私の幼心にも、うすうす覚えがある。しかし、私たち孫に対しては、常に明るく穏やかに接してくれる人だった。
 祖父が先立ち、祖母はその後一人暮らしをしていたが、しばらくすると認知症の中核症状が顕著に現れ始めた。また、周辺症状による暴言、徘徊が目立つようになり、伯父や母は苦慮していた。症状が出始めて半年経った頃、伯父と母は苦悩の末、祖母を施設へ入所させることを選択した。
 祖母は、施設に入所した当初「なぜここにいるのか、早く家に帰りたい。」としきりに訴えていた。伯父は、「親を施設に入れるのは申し訳ない。」という罪悪感をとても強く感じていた。きっと、祖母の訴えに心を痛めていたのだろう。伯父は、祖母が施設を退所するまでの約10年間、毎週末に欠かさず面会に行っていた。これは罪悪感だけでできることではない。そこには、親を想う気持ちと感謝の念が誰よりもあったのだろう。
 施設に入所して10年目の春、祖母が癌に侵されていることがわかったが、このときすでにステージⅣだった。私たち家族は皆、悲しみに打ちひしがれた。
 手術をすれば、高齢のために身体へかなり負担がかかり、認知症の症状も進む。年齢的に残りの余生を考えると手術を行うことは賢明ではなかった。相談の結果、同じく福祉の仕事に携わっている妹がすぐさまケアマネとコンタクトをとり、祖母は緩和ケアを受けられる病院に入院することになった。
 入院してからの祖母は、日に日に衰弱していった。入院当初は食事をしていたが、徐々に食べられなくなり、最後は水ですら喉を通らなくなっていた。トイレも自力で行けていたが、ベッドから起き上がることさえ困難になっていった。そして、腹部の痛みがだんだん強くなり、その度に鎮痛剤の注射を施されていた。
その当時、私の長女は7歳で、面会に行くと祖母に一生懸命に語りかけていた。最後はほとんど意識がなかったが、彼女は常に祖母に寄り添っていた。幼い子どもにも、消えようとする命が理解できているように思えた。
入院して2週間が過ぎた早朝の4時頃、付き添っていた伯父から祖母が息をひきとったとの電話があり、病院へ向った。
病院のベッドで横たわる祖母の亡骸、手を握るとまだ温かい。いずれ訪れるであろうと分かっていたはずの結果を、すぐに受け入れることができずにいた。私は涙を拭い、祖母の顔に目を遣ると、眠っているようなとても安らかな表情で、先日までの痛みによる険しい表情が嘘のようだった。
 冷たくなっていく祖母の身体を、看護師の方と一緒に拭かせてもらった。この結末は、祖母が願っていた世界なのか?これでよかったのか?亡くなった祖母に問う自分がそこにいた。
 祖母の死を目の当たりにして想う。人は必ず「死ぬ」ということ。人は、生きているときには「生」を感じず、「死」によってはじめて「生」を感じるものなのだと。  東洋では古くから「無常を観ずるは、菩提心のはじめなり。」といわれている。世の無常、特に死を見つめることが本当の幸せを求める心の出発点であるということである。
 私たちは、今の状態がいつまでも続くと思いがちである。だが、無常を観ずることで、いつまでも続くのではなく、限られた命であるからこそ、今日の一日が大事であり、いまの一瞬が大事になってくる。生きていることに感謝し、すべてが当たり前ではないということなのだ。私たちに与えられた日々を精一杯、有意義に過ごすことであり、その延長線に「死」があることを前向きに受け止めるべきではないのだろうか。



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