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「人それぞれ」って本当にそうですか?

「人それぞれ」って本当にそうですか?

間傳介



私たちが集団で何かをしようとする時、往々にして「話し合い」ということをやりますが、ある思想家は「日本には話を終わらせるテクニックが数多くある」と言っていました。

話すとき、交渉、懐柔、説得などの目的がある場合もありますが、大体目的を据えた場合これは言葉だけでどうにかするというのは難しいものです。

勉強して、その知識だけで会話をできるようにするというのも難しいものがあります。

世には「プロ奢られヤー(他人に奢ってもらうことで生活している人)」や、「レンタル何にもしない人(時間で彼を「借りる」のですが、特に仕事などを申しつけない)」等がおられます。彼らが気になった方は検索してみてください。

彼らが口を揃えて言うのは、ひたすら相手の話を聞く、聞くことによって話を広げる。そして特にアドバイスをしようとはしない。ということが挙げられます。

書店に行くと『成功する雑談力!』とか『聞けばモテる!』という本がダダダっと並んでいます。これらの本を読んで雑談力を身に付けるぞ!モテるぞ!と意気込むのもまあときには良いのでしょうが、本を読んだらすぐそれがどうにかなるか、と聞かれたら、わたしは「別にそんなことないんじゃない?」と答えたいですね。

会話が上手くいかない場合、考えられるのはお互いの熱量が違うとか、そもそも相手が話したくないときに話しかけているとか、そういうことだってあるわけです。相手が腹が痛くてトイレを探して鬼の形相をしているときに、「昨日プラス思考の本を読んだんですよ〜。笑顔、大事ですよ!」なんて呑気に言ったら、用を足し終えた後に一発殴られても文句は言えないと思います。ある種人間の尊厳を脅かしている。

プラス思考、大事だということ、これは概ね正しいとして良いのですが、殴られたときに「私、何にも間違った事言ってませんよ!」と言ってもその罪は消せないでしょう。

この場合間違ったのは、話の内容ではなく、相手が聴ける状態にあるかどうかという気遣いを欠いていた上にアドバイス(ある種話者側が相手を教育する力関係の強制)なんかしていることが罪なのですから、話の内容はほとんど罪状に関係がありません。

わたしの好きな人に、西田幾多郎という人がいます。とても優しい顔をしていて、私は大好きなのですが、彼がこんなことを言います。

「知」と「愛」とは、別のものとして考えられがちだが、これらは元来同じ根を持たねばならぬ。(筆者要約)

昨今仕事をしている人と、店や街で出会えば、マニュアル的な会話や、「こちらには責任がないのだ」というくどくどした説明などを聞かされることがあります。
それらは西田の分類を借りて私なりに言ってみると、

「知」に見せかけた怯えの姿である

と言えるでしょう。怯えと言っても、本当に怖いということ、トラブルを自分を発端として起こしたくないと言うこと、早く帰りたいとか、濃淡深浅様々だとは思います。 とにかく自分を脅かされないために、法を犯さない程度の言葉を並べておく。という態度といえば想像がつきやすいでしょうか。

では、「愛」と溶け合った、同じものとしての「知」は如何なるものでしょうか。

それは相手の恐怖や不安を一緒に和らげたり、願わくば取り除くために使われる、小刀のような「知」ではないかと思います。

先程のトイレを探している人に、愛と同根の知を以って接するとしたら、「二番目のドア!」と知らせるのが良いか、「大丈夫?」と声をかけるのが良いのでしょうか。

どちらともいえませんね。具体的な状況において、というより、相手が今どう考えているか、自分ならどう感じるか、考える瞬発力は、実戦してみないことには育まれません。そして、上手くいかなかったら相手に責を負わせず、よく自分の行動を振り返ることです。それがまた次の場面に活きます。反対に振り返らず、よりよくしようとしなければ、また同じように上手くいかないコミュニケーションと、心の中にわだかまりが残るだけです。

はっきり言って振り返ったり、自己の行いをこうすればよかったああすればよかったかと考えるのは、傷に塩を塗るような感覚であることは確かですが、これは繰り返すことによって慣れていくものです。

「人それぞれって本当?」ですか?と題を掲げました。
それぞれである部分確かにあります。ただ、求めなければならない優しさや正しさ、強さというのは、本当はそんなに幾つもあるものではないと、私は考えますが、皆さんいかがですか?

西田幾多郎はこう言います。

「我々が他人の杞憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直(ただち)に自己に感じ、共に笑い泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。」と。


間傳介 プロフィール

1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長