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でこぼこ道を歩く~大家とのなれそめ~

でこぼこ道を歩く~大家とのなれそめ~

城谷平



 30年も店子として付き合った大家が78歳で亡くなったのが一昨年末、あれからもう1年と少しがたった。早いものだ。血のつながりもなく何となくいわば流れで、付き合って“しまった”、というのが正しい気がする。

 巻き込まれ型の物語というストーリー形態があるけど、僕の場合は巻き込まれ型で始まった介護だったのだ。

 彼は、糖尿病だった。親も長男も同じ病気だった。僕は大したことはできなかった。ただ、気の置けない友達ではあったと思う。すこしでも慰めにでもなっていたのならうれしい気はするし、亡くなった時は泣きはしなかったけど、悲しくはあった。そこにいるはずの人がある日を境にいなくなったのだから。

 あくまで後付けだけど、介護なんかするつもりも覚悟もあったわけではない。僕はそんな奇特な人ではない。“放っておけなかった”だけ。僕は、お年寄りが自室で一人きりで死ぬいわゆる“孤独死”を必ずしも全否定するわけではない。人間死ぬときは誰しも一人だ。話がそれるので、ここはおくけど、ただ僕がいなければ、彼はほぼ確実に孤独死に至っていただろうと思う、それは確かだ。

 20年ほどは世話を見たはずだが、亡くなるまで3年足らずは入院生活だった。息を引き取るほんのひと月ほど前。血がつながった兄弟を含むほんの数人が姿を現したけど、それまでは電話一本なかったのだ。僕は、兄弟たちの声どころか顔を見たこともなかった。話すのも初めて。僕は多分、彼らには邪魔者だったと思う。病院が、僕の法的立場を心配してくれていた。僕は、ただの気のいいもの好きにすぎなかったろう。なんとなく身寄りのない偏屈で性格がいいわけでもない年寄りの世話をしてしまった、のだから。

 僕は大家とは血のつながりはないのだ。血がつながってる兄弟からは、大家は死んだんだからもうあなたの役目は終わった、今までご苦労様、出て行ってくれと言われても、僕には返す言葉はなかったかもしれない。大家はそれなりの額の金を残していた。彼らが姿を現した理由だった。

 大家が兄弟たちと疎遠になった一番の原因は横暴な長男の存在だった。三男であった大家は、何かと邪魔者扱いで、遺産の相続でも貧乏くじを引かされたようだ。また、精神的な虐待もあったようだった。酒を飲んだある時、「あんたは自殺を考えたことあるかい?おれはあるよ」と語ったこともある。

 そんな長男氏は病院で死期が近いと聞かされ、初めて会った僕に「あなたは親戚のだれもができないことをしてくれた。親戚以上だ」といわれた。ひょとしていい人か?、とその時は思った。少しホッとしたが、甘かった。

 葬式をすませ、数か月後に静岡にあるという菩提寺のお墓に納骨の運びとなった。その時の長男氏のあいさつはひっくり返るようなものだった。「私の責任で納骨ができて満足している。長男としての責任を果たせてほっとしている」。三十年も病気の弟を放っておいた人の言葉だ。実質アンタの責任を果たしたのは僕じゃないのか?

 納骨にかかった費用は全部大家の残した金で賄った。納骨は長男の許可がいるとも聞いていたがこれも嘘で、父親、大家本人とお寺の間で生前に約束ができていたことだった。言い添えると長男氏は財産もいいとこどりして大卒で官庁勤めの後、運送業を経営していた。僕から見ても裕福でその息子は外資系の優良企業の勤め人。



 今更書くけど、この文章、介護をやる人には起こりうることなので、できれば面白半分にでも読んでほしい。

 大家は中卒。トランジスタラジオの工場で働いた後、お父さんの下で着物の紋の型を作る職人になった。中学の時は修学旅行にも行けなかったらしい。
 なるほど、病院の人たちが心配してくれた僕の法的立場ってこのことだったんだ。 
 ただなんとなく、介護しちゃった僕、の立場というのは結構微妙なのだった。

 思い出すことがある。介護が始まるきっかけだったかもしれない。僕が住んでいるウチは狭いながらも築五十年にもなる木造の一軒家だ。一階に大家が住んで当初は、僕ともう一人の店子がいた。そのもう一人が引っ越した後、なんとなく両方から「知らない人を入れるのも面倒だな」となり、僕が一人で借りることになった。

 なにせ築五十年の安普請だ。僕の出入りは外の鉄階段だけど、壁が薄いものだからお互いのモノ音はまる聞こえ(笑い)だ。でもお互いの自由を尊重して、(といえば聞こえがいいが、面倒なので)僕が大きな音で音楽を聴いても、大きな音でエレキギターを弾いても文句は言われなかった。お互い自由でのんびりしていた。大家も音楽好きで、ベンチャーズを大音量でかけていた。

 大家の部屋で酒を飲んでいて、郵便配達の人が来て階段を上がるとギシギシ音が聞こえる。「わはは、ここ泥棒が入ってもすぐわかるね」。そんなことを言って笑いあってた。

 しかし、この決して良好とはいえないぼろ屋の構造が効を奏したのだった。

 糖尿病の薬を飲みだして3年目ころだった。実は病気は進行していた。大家は60前半、まだロングピースという強いタバコをすぱすぱ吸い、酒もほぼ毎日飲んでいた。部屋自体にきついタバコ臭が染みついていた。いい肴(さかな)があるときなど、彼の部屋に寄り一緒にのむことが多かった。

 ある日の朝だった。外出するため階段を下りていき大家の部屋の前を過ぎようとした。サッシ窓の曇りガラスの向こうに影が動き近づいてきた。
 「シロタニサン(ぼくのこと)、たすけてくれ」
 かすれた弱弱しい声だった。動転してるのが伝わってきた。

 「どうしたんだい」
 「目が、見えないんだ」
 糖尿病の悪化だった。

つづく



【プロフィール】 1955年、佐賀県唐津市呼子町生まれ。いつのまにか還暦は過ぎ、あのゴジラよりは1歳年下。介護の仕事に就いたきっかけは先年亡くなった親友のデザイナーの勧め。「人助けになるよ」との言葉が効きました。約二十年くらい前に飲み友達だった大家が糖尿病で体が不自由になり、一昨年暮れに亡くなるまでお世話。思い出すとこれが初めての介護体験でした。今はその亡き大家のうちにそのまま住んでいます。元業界新聞記者、現ライター。