大家のことを書いていて思い出した。僕は今思うと、典型的な介護離職者だったのだ。物事は順番通りにおこるものなのか、90年代の末頃、大家の病気はそんなに進んでいなくて、まだ元気があった。他人事みたいな、あほみたいな書き方だが、あわただしく過ぎたその数年、記憶がところどころまだらに飛んでいるのだ。
これから書くことは私事なのでできるだけ駆け足で書く。いわば、なんちゃって介護“外伝”。ただ誰にでも起こりうることなので何らかの参考にはなると思う。辛い状況にある人は笑って読んでほしい。
そのころ、僕の家族を立て続けに不幸が襲った。96年だったか母が交通事故にあった。三日ほど意識が戻らなかったが、幸い命はとりとめた。
事故後の母はまるでノックアウトを食らった直後のボクサーのようだった。意識不明で、全裸で横たわり、着ていた服はズタズタだった。両目の回りがどす黒く内出血している。レントゲン写真を見ると、こめかみあたりにひびが見えた。脳がパンパンに腫れあがり、その腫れがうまく引いてくれるかが分かれ目だといわれたが、医者はあまり期待はしないようにともいった。
三日後に目を覚ました時のことは忘れようにも忘れられない。彼女は僕のことを病院の医者だと思っていた。「うちの長男にまだ晩御飯を食べさせていません。先生、あの子どうしていますでしょう?」。最後に見せてくれた母親らしさだった。母とは偉いものである。わがままなお嬢さん育ちだった彼女の見せてくれた意外な姿は今も僕を力づけてくれる。
そのあくる日、彼女は僕のことを次男だと認め名前を呼んでくれた。事故後数日もつか?と病院から脅かされていたが、彼女はなんとかこちらの世界に戻ってきてくれた。
しかし、76歳だった彼女はめっきり弱ってしまった。また、事故の時頭を打ったのが悪かったのか、軽い痴ほう症の症状が出てきた。料理その他自分の身の回りはできていたのが、事故を境にマッチをすることさえおぼつかなくなった。火を怖がるのだ。ただ、もともとおとなしい性格が幸いしてか、余計に世話をかけるようなことはなかった。一日中テレビをただ眺めているような弛緩した毎日だった。僕は、本職のほかフリーライターもやって小遣い稼ぎをしていたが、だんだん首が締まる思いがしてきていた。
親父はとうに亡くなっていた。偶然だが、母にも今と比べ厚生年金がかなりもらえて、助かった。ところが全然ほっとできないのだ。長男がいたのだが、このころ多発性硬化症という難病に罹患してしまった。これが二つ目の災難だった。一難去ってどころではないダブルトラブル。さすがにビビった。
僕は、東京で新聞記者をやっていた。そのころは、ベテランというか中堅というか、ある程度は仕事の融通が利いてはいた。もともと、ルーズな勤務体系ではあった。朝のラッシュは知らないしタイムカードを押したことがなかった。直行直帰が許されていた。
とはいえ、田舎に病人が二人がいて、東京で新聞記者をやってゆく二重生活には限界があった。無理が来ていたと今思う。朝がゆっくりなのをいいことに毎日ジャズバーで深夜二時までウィスキーを飲んでいた。吐き気をこらえ朝10時半の記者会見に出ていた。
いま考えると綱渡りのような日々だった。母の厚生年金がそれなりにあって、当初はお手伝いさんを雇うことができた。だが、母は目に見えて弱っていった。僕だって弱っていたと気づくのは、その後のことだった。きつい試合をして強いパンチで殴られ続けたボクサーのようにダメージが溜まっていた。
二年後に母がなくなった。お手伝いさんに辞めてもらい、兄は入院。小さな借家は引き払った。兄は障がい者年金をもらえた。月に数万円。幸いにといっていいのかわからないが、国が難病指定している病気なので病院代はかからなかった。数万円はほとんど小遣いになった。ベッドの上から、通信販売でCDやDVDを買うことだけが楽しみだった。
今思い出しても腹が立つことがある。経済的に早晩、息詰まる心配があり、兄に生活保護をもらおうと、役所に何度も足を運んだ。地域の生活相談員などいろんな人に相談もした。ところが、役所の門は重くぶ厚い鉄の扉のように硬く閉ざされていた。申請をそもそもさせてくれないのだ。本気で人を殴ってやろうかと思った。
大声も出した。「死ね、というのか」。役人の顔に“そうだ”と書いてあった。
申請さえさせないというのは、日本国憲法が基本的人権を認めているからだ。申請を受け付けると、生活保護受給を認めなければならない。だから門前払いをするのは役所の絶対命題なのだ。だから僕は、平和のため、そして戦争を二度としないためでもあるが、憲法は絶対に変えてはいけないと今も硬く信じている。生活保護が最後の命の綱であるぎりぎりの人はいるのだ。
政党や宗教に頼るとかの知恵は思いつかなかった。東京との二重生活で疲れてもいて余裕がなかった。日本の生活保護捕捉率は世界先進国の最低水準のはずだ。生活保護を受けやすくするというのは、“いいことなんかなにもやっていない”政権の絶対命題だと思う。寄り道はいい加減にするけど、税金からもらったお金でも、生活費ほぼ全額地元で使う。効果がはっきり見える経済対策であると国民は知るべきだ。内需のかさ上げになるんだから。
母を追うように兄が死んだ。ここまで頑張ったんだからと思わないでもないし、身に余ることだが多くの人が引きとめてくれた。だけど、ちょっとしたトラブルで僕は会社を辞めた。知らずに限界が来ていた。眠れなくなり生まれて初めて精神科を受診した。本能がそうさせたと思う。今風に言えば、心が折れてたかもしれない。
幸い軽かったようだったが、鬱の診断を受けた。これまた生まれて初めて睡眠薬をもらった。僕にはよく効いたようだった。薬に感謝した。なんちゃって介護外伝のような僕の個人的な話はこれでおしまい。
大家の糖尿病は、待っていたように悪化していった。
【プロフィール】 1955年、佐賀県唐津市呼子町生まれ。いつのまにか還暦は過ぎ、あのゴジラよりは1歳年下。介護の仕事に就いたきっかけは先年亡くなった親友のデザイナーの勧め。「人助けになるよ」との言葉が効きました。約二十年くらい前に飲み友達だった大家が糖尿病で体が不自由になり、一昨年暮れに亡くなるまでお世話。思い出すとこれが初めての介護体験でした。今はその亡き大家のうちにそのまま住んでいます。元業界新聞記者、現ライター。
これから書くことは私事なのでできるだけ駆け足で書く。いわば、なんちゃって介護“外伝”。ただ誰にでも起こりうることなので何らかの参考にはなると思う。辛い状況にある人は笑って読んでほしい。
そのころ、僕の家族を立て続けに不幸が襲った。96年だったか母が交通事故にあった。三日ほど意識が戻らなかったが、幸い命はとりとめた。
事故後の母はまるでノックアウトを食らった直後のボクサーのようだった。意識不明で、全裸で横たわり、着ていた服はズタズタだった。両目の回りがどす黒く内出血している。レントゲン写真を見ると、こめかみあたりにひびが見えた。脳がパンパンに腫れあがり、その腫れがうまく引いてくれるかが分かれ目だといわれたが、医者はあまり期待はしないようにともいった。
三日後に目を覚ました時のことは忘れようにも忘れられない。彼女は僕のことを病院の医者だと思っていた。「うちの長男にまだ晩御飯を食べさせていません。先生、あの子どうしていますでしょう?」。最後に見せてくれた母親らしさだった。母とは偉いものである。わがままなお嬢さん育ちだった彼女の見せてくれた意外な姿は今も僕を力づけてくれる。
そのあくる日、彼女は僕のことを次男だと認め名前を呼んでくれた。事故後数日もつか?と病院から脅かされていたが、彼女はなんとかこちらの世界に戻ってきてくれた。
しかし、76歳だった彼女はめっきり弱ってしまった。また、事故の時頭を打ったのが悪かったのか、軽い痴ほう症の症状が出てきた。料理その他自分の身の回りはできていたのが、事故を境にマッチをすることさえおぼつかなくなった。火を怖がるのだ。ただ、もともとおとなしい性格が幸いしてか、余計に世話をかけるようなことはなかった。一日中テレビをただ眺めているような弛緩した毎日だった。僕は、本職のほかフリーライターもやって小遣い稼ぎをしていたが、だんだん首が締まる思いがしてきていた。
親父はとうに亡くなっていた。偶然だが、母にも今と比べ厚生年金がかなりもらえて、助かった。ところが全然ほっとできないのだ。長男がいたのだが、このころ多発性硬化症という難病に罹患してしまった。これが二つ目の災難だった。一難去ってどころではないダブルトラブル。さすがにビビった。
僕は、東京で新聞記者をやっていた。そのころは、ベテランというか中堅というか、ある程度は仕事の融通が利いてはいた。もともと、ルーズな勤務体系ではあった。朝のラッシュは知らないしタイムカードを押したことがなかった。直行直帰が許されていた。
とはいえ、田舎に病人が二人がいて、東京で新聞記者をやってゆく二重生活には限界があった。無理が来ていたと今思う。朝がゆっくりなのをいいことに毎日ジャズバーで深夜二時までウィスキーを飲んでいた。吐き気をこらえ朝10時半の記者会見に出ていた。
いま考えると綱渡りのような日々だった。母の厚生年金がそれなりにあって、当初はお手伝いさんを雇うことができた。だが、母は目に見えて弱っていった。僕だって弱っていたと気づくのは、その後のことだった。きつい試合をして強いパンチで殴られ続けたボクサーのようにダメージが溜まっていた。
二年後に母がなくなった。お手伝いさんに辞めてもらい、兄は入院。小さな借家は引き払った。兄は障がい者年金をもらえた。月に数万円。幸いにといっていいのかわからないが、国が難病指定している病気なので病院代はかからなかった。数万円はほとんど小遣いになった。ベッドの上から、通信販売でCDやDVDを買うことだけが楽しみだった。
今思い出しても腹が立つことがある。経済的に早晩、息詰まる心配があり、兄に生活保護をもらおうと、役所に何度も足を運んだ。地域の生活相談員などいろんな人に相談もした。ところが、役所の門は重くぶ厚い鉄の扉のように硬く閉ざされていた。申請をそもそもさせてくれないのだ。本気で人を殴ってやろうかと思った。
大声も出した。「死ね、というのか」。役人の顔に“そうだ”と書いてあった。
申請さえさせないというのは、日本国憲法が基本的人権を認めているからだ。申請を受け付けると、生活保護受給を認めなければならない。だから門前払いをするのは役所の絶対命題なのだ。だから僕は、平和のため、そして戦争を二度としないためでもあるが、憲法は絶対に変えてはいけないと今も硬く信じている。生活保護が最後の命の綱であるぎりぎりの人はいるのだ。
政党や宗教に頼るとかの知恵は思いつかなかった。東京との二重生活で疲れてもいて余裕がなかった。日本の生活保護捕捉率は世界先進国の最低水準のはずだ。生活保護を受けやすくするというのは、“いいことなんかなにもやっていない”政権の絶対命題だと思う。寄り道はいい加減にするけど、税金からもらったお金でも、生活費ほぼ全額地元で使う。効果がはっきり見える経済対策であると国民は知るべきだ。内需のかさ上げになるんだから。
母を追うように兄が死んだ。ここまで頑張ったんだからと思わないでもないし、身に余ることだが多くの人が引きとめてくれた。だけど、ちょっとしたトラブルで僕は会社を辞めた。知らずに限界が来ていた。眠れなくなり生まれて初めて精神科を受診した。本能がそうさせたと思う。今風に言えば、心が折れてたかもしれない。
幸い軽かったようだったが、鬱の診断を受けた。これまた生まれて初めて睡眠薬をもらった。僕にはよく効いたようだった。薬に感謝した。なんちゃって介護外伝のような僕の個人的な話はこれでおしまい。
大家の糖尿病は、待っていたように悪化していった。
【プロフィール】 1955年、佐賀県唐津市呼子町生まれ。いつのまにか還暦は過ぎ、あのゴジラよりは1歳年下。介護の仕事に就いたきっかけは先年亡くなった親友のデザイナーの勧め。「人助けになるよ」との言葉が効きました。約二十年くらい前に飲み友達だった大家が糖尿病で体が不自由になり、一昨年暮れに亡くなるまでお世話。思い出すとこれが初めての介護体験でした。今はその亡き大家のうちにそのまま住んでいます。元業界新聞記者、現ライター。