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介護者と二人三脚の子育て~養護学校時代の1つだけいい体験~

介護者と二人三脚の子育て~養護学校時代の1つだけいい体験~

平田真利恵



新型コロナウイルス感染症対策として、全国の小中校・高校が3月から一斉に休校になった。
政府から休校の要請が出たのが2月27日(木曜)だったため、6年生の娘にとって卒業式当日を除いたら28日(金曜)が小学校生活最後の日になってしまった。なんの前触れもなく突如として決まった全国一斉休校……感染拡大防止として政府の判断は決して間違いではなかったと思いたいところであるが、あまりにも急な展開に親である私の方が気持ちが追いつけなかった。幸いな事にうちの地域では、簡易的ではあるが卒業式も入学式も行えたので良かったのだが。

私は、小学校から高校までの12年間を養護学校(特別支援学校)で過ごした。
保育園も隣の市にある障害児専門の保育園に片道1時間かけて通っていた。障害児専門の保育園といっても知的障害児が主な対象だったため、職員はそちらの子供達をメインに対応していく。そのため、あまり動くことのできない身体障害の子供は職員から後回しにされがちだった。それでも、家に母親と2人でいるよりかは退屈しないで済むし、あまり専門的ではないが保育園でリハビリも受けられるという理由で通っていた。

しかし、自我が芽生え始めると通っている保育園に物足りなさを感じはじめ、片道1時間かけていく意味があるのか子供ながらに分からなくなっていった。唯一、保育園での楽しみといえば月2回の近所の幼稚園との交流の時間だった。交流の時間とは、その幼稚園で同じ齢の子供たちと一緒に工作やお遊戯などしてお弁当を食べるというものだった。はじめのうちは、それまで見たことのない障害児に戸惑うが1時間もすれば一緒にお絵描きをしたり追いかけっこをしたりと子供同士仲良くなる。他者と自分を比較して優劣をつけるという観念があまりないこの時期の子供達からみて自分が、単純に「歩けなくて少し動きが変な子」くらいにしか思われてないことがとても心地よかった。

いつも周囲の大人達から感じ取れる「同情や嫌悪」といった感情を向けられる事で、物心ついた頃から「自分は普通じゃないんだろうな……面倒くさい存在なんだろうな」と嫌でも感じさせられてきた。でも、子供達だけの空間にいれば、例え身体が不自由でも皆と変わらない「子供」で過ごせるような気がしていた。そして、段々と交流先の幼稚園に通いたいと思うようになっていった。両親も「小学校は無理でも幼稚園ぐらいは他の子供と同じように通わせてやりたい」と考えていたらしく交流先の幼稚園に相談に行った事があった。応接間で両親と園長先生が話している間、隣の部屋でドキドキしながら待っていた。幼稚園に通えるようになった時のために、身の周りの事も自分で出来るよう練習もしていた。園長先生と両親の話が終わり、母親が待っていた私を迎えにきた時の表情をみて幼稚園側に転園を断られた事はすくにわかった。なんとも悔しそうな、そして申し訳なさそうな表情だった……。やはり、障害児の受け入れは前例も無いし何かあった時の責任を考えると当時その幼稚園側は断るしかなかったようだった。

帰りの車の中で私は大泣きした。「なんで月2回は良くて毎日はダメなの?それなら最初から歩けない子は来ないで!って、交流なんかしなければいいのに……」と泣きじゃくり駄々をこねて車から降りず両親を困らせたらしい。そして「やはり、自分は皆んなとは同じ場所には行けないんだ……行けたとしてもそれはウソの場所なんだ」と当時4歳だった私は、自分の将来はどんなに頑張っても周りの大人の気分で決まるもんだと考えるようになっていった。

養護学校に入学してからは、益々周りの大人達(教師・親)のブレブレな教育方針に振り回される事となる。今から30年ほど前の九州の片田舎では、障害児への理解など殆どない状態だった。「障害者はいずれ施設に入るのだから下手に知恵をつけさせて物事を考えさせる方が可哀想だ」という差別的な考えを持つ教師も多く、通常の授業はせずに数年過ごさせられた。普通に「勉強したい」と主張しただけで親子共々、変人扱いされた時期もあった。主張し続けることで徐々に周囲も変わっていったが、今度は改革派の教師達の実験的取り組みに付き合わされる事となる。それまで満足な授業もしてこなかったくせに何かとハードルの高い事を要求されるようになり、出来ないと「努力が足りない」と呆れられたりもした。とにかくこの頃のブレブレな教育方針にはこりごりだった。だが1つだけいい体験もさせてもらった。

それは、高校2年の夏。ある障害者団体の企画で、全国の障害を持つ高校生が集まり意見交換するという趣旨のものに参加したことだ。その中で、高校卒業後の進路について話す機会があり、他の地域から来ている養護学校に通う子の多くが「大学進学を考えている」という事実を知り驚いた。自分が住んでいる地域の障害児の進路なんて施設や親元、もの凄く頑張って地元で就職という選択肢しかなかったからだ。さらに進学の理由も「みんなが行くから自分も行く」というとても普通なもので、更にカルチャーショックを受けた。私が経験した幼稚園の受け入れ拒否なんて「いつの時代の話?」と逆に想像できないという感覚の子達が大半だった。違う土地で生まれただけなのにこんなに人生の選択肢が違うんだと痛感した。

確かに本人の努力次第で道は開けるかもしれないが、障害児は自分だけの力では能力を発揮する事は難しい。周囲の理解とサポート体制があり初めて一般の人と同じスタートラインに立つ事ができるのだと感じ、「今までいた環境では自分のやりたい事が見つかっても達成するまでに他の人よりも何倍もかかってしまう。まずは環境を変える事が大事だ」と感じ、高校卒業後に時期を見て都会に出ていかなければ!と決意するキッカケとなる体験であった。

それから数年後、私は運良く東京に出てこれる機会があり上京する事ができた。そして、子供を生み自分なりの形で育てている。もう、ほぼ手のかからなくなった娘に対しては少し寂しい想いもあるが、衣装ラックにかかる真新しい制服を眺めているとホッとする気持ちもある。

まともな教育を受けていない、普通の学生生活を送った事のない私が娘と一緒に保育園に通ったり小学校へ母親としていく事にとても不安だった。私がいる事で、子供の足を引っ張ってしまうんじゃないかと思うからだ。そのため、普段から周りにいる介護者に自身の経験談をよく話してもらう。(別に強要ではなく、あくまでも普段の会話の中の範囲で……)

もちろん育児経験者だけではなく、現役大学生の介護者に学生時代の話などを聞くこともある。いろんな話を聞くことで出来るだけ自分が体験できなかった普通の子供時代の経験を想像をし「自分ならこうするかな」などとシュミレーションしていく。想像の範囲ないではあるが、娘の悩み事や困り事に少しでも共感してあげられればと思いシュミレーションする。元々臆病な性格のため、実際の事柄より遥かに大事件と勘違いして私の方が暴走する事も多々あるため結局娘には迷惑をかけてしまうこともある。その結果、娘から「中学生になったらママは話を聞くだけでいいからね。心配しないでいいよ」と釘を刺されてしまったが、弱虫で泣き虫だった子がいつの間にか「心配しなくていい」と言えるくらいに成長したんだと思い少しだけ肩の荷がおりた瞬間でもあった。





平田真利恵(ひらたまりえ)
昭和53年生まれ、脳性麻痺1種1級。
2002年の秋、「東京で自立生活がしたい」という思いだけで九州・宮崎から上京。障害者団体で2年ほど自立支援の活動をした後、2007年女の子を出産。シングルマザーとして、介護者達と二人三脚で子育て中。 地域のボランティアセンターで、イラスト作成や講演活動を行なっている。