でこぼこ道を歩く~忘れられない頼まれごと「助けてよ」~

でこぼこ道を歩く~忘れられない頼まれごと「助けてよ」~

城谷平


  アタマに残ってて忘れられない言葉がある。

 「助けてよ。言ってやってよ、城谷さん」。映像が音付きでよみがえる。

 自慢げに聞こえるでしょうが、自慢の部分は少しだけ。この言葉を頂いたのは手技が覚束ない素人丸出しのころで、こんな言葉は身分不相応というものでした。だが、うれしくはあった。こんな僕でも頼ってくれる、って感じ。 

 ただ、今の介護をめぐる日本の状況にはいくらか、関わり合いもあるようにも思えるのです。ある意味、介護の社会化をめぐる普遍的問題ともいえると思います。

 プライバシーの問題があるから固有名詞にはなるべく触れないで…

 古めの高層アパートに住む夫妻で年のころは70歳プラスマイナスα。旦那さんと奥さん双方に障害があり。奥さんは比較的軽かったので、いわゆる老々介護の状況。旦那さんは全麻痺だけど、口がやや不自由ながら、思考力的には僕なんかよりクリアでした。

 僕の役割は奥さんのアシストと、旦那さんの介護一般。掃除洗濯他家事一般も。この現場が大好きでした。僕より10年ほど上の世代だけど、お二人とも教養は深いし話するのが楽しかった。ぼかして書くと、文化的にも政治的にもあこがれを抱く世代です。政治の季節といわれる学生がデモに向かった時代ですね。例えばボブディランが出始めたころでもあり、アメリカンフォークの話もよくした。僕はビートルズでやっと追いつく感じ。

 僕は今、悪い意味で政治の季節が来ていると思ってるんですが、これも余談。

 「助けてよ」というのは奥さんの言葉。確かに障害を抱えていたけど自立心の強い人で若いころからバリバリのキャリアウーマンだったらしい。いわゆる一流大学出で頭の回転はすこぶる速い。古臭い男性像にしがみつく男どもからはむしろ敬遠されてたようなタイプでしたろう。

 なぜそんな人が僕みたいなへたくそを気に入ってくれたかは謎なんですが。まあ、男は愛嬌といいますから。

 そんな男らしい人?が僕なんかに助けを求めてるのですから。冥利に尽きる思いでした。何の冥利?と聞かれたら介護職以前に人かな。

相談とはこんなことだった。奥さんには二つ上のお姉さんがいてたまに顔を出す。お茶菓子なんかを買ってきて世間話をしたり、買い物をしてきてくれたり、普通に仲の良い姉妹に見えた。もうご両親はいない。

 そのお姉さんが、このご夫婦の今後を心配してのことではあったろう。決して悪気はあったとは思われない。僕はお姉さんともよく話したからわかるけど意地悪をする人では決してなかった。普通にいい人でした。ある意味それは怖くもある。同調圧力をかけて個人を追い込んだりする“いい人”はそこらじゅうにいるからね。

 まさに、でした。

 お姉さんは、後天的なある病気で体の動きがままならない妹さんのことを心配したのでしょう。僕の目には大変な状況ではあるけれど仲睦まじい二人だったのに、どこか設備の整った施設に旦那さんに移ってもらっては、という申し出だった。

 だから奥さんの「助けてよ」という言葉が僕には刺さった。お姉さんの思いやりの気持ちはわかんないでもない、でも…。善意が人を追い詰めることがあります。  ただし、僕の気持ちは言われるまでもなく決まっていた。

 このご夫婦は決して豊かとはいえないけど(というよりつましく生きてた)、奥さんの年金と親から継いだモノで今の生活を維持するのは決して難しいことではなかった。

 でも何より旦那さんはほぼ寝た切りとはいえ、介護する人間もいて必要に応じてかかりつけのお医者さんが定期的に訪問するなど、医療ケアも普通に受けられる。奥さんは「頼りない女医さんだよね」なんていってたけど。

 つまり僕の目にはこのお二人は自立していた。他人の手を少しだけ借りてるなんて、実はどうでもいいことだと思った。事実そうなったけど旦那さんの命がそう長くないのも何となく感じていたのです。

 だからこそ、僕みたいな夾雑物がいたりしても、二人だけの世界は何物にも代えられない貴重なものだと思ったのです。言葉なんかなくても、通いあっていました。二人だけの完結した世界、できるだけいつまでも続いてほしかったのです。それを終わらせるのはとんでもないことに思えました。

 結局お姉さんが言ってたことは、“世間体”の域を出るものではなかったし、彼女にはちょっと厳しいい言い方だけど、障がい者への偏見でもあった。僕は旦那さんが口には出さずとも、奥さんに世話をかけていることへの感謝及び後ろめたさのような思いを知っていた。だから真っ向から反対した。

 お姉さんは基本的には気のいい人だったのは幸いでした。粘着せず、こちらの主張を入れてくれ仲たがいにはならなかった。私鉄駅ちかくのいかにもきれいで、設備や人が十分に行き届いたであろう施設のパンフレットをしぶしぶだったろうけど、持って帰ってくれた。

 数年後のある朝に旦那さんは亡くなった。普通に寝てるようだったそう。僕は、その前夜までこのお宅につめていた。幸せなご夫婦だったし、僕だってその幸せを感じたり見たりしたことは、よかったなーと今も思ってる。

 あの気の強い奥さんの「助けてよ」という言葉と声は忘れられないのです。  

※「永遠の昨日性」。マックスウェーバーというエライ先生の経済学に関する本の中に出てくる言葉をミーハー的に使いました。人が支配される三つの要素の一つとされる。日本の政権のトップを考えると正しいと思う。恐ろしいことですが。

     
     

【プロフィール】 1955年、佐賀県唐津市呼子町生まれ。いつのまにか還暦は過ぎ、あのゴジラよりは1歳年下。介護の仕事に就いたきっかけは先年亡くなった親友のデザイナーの勧め。「人助けになるよ」との言葉が効きました。約二十年くらい前に飲み友達だった大家が糖尿病で体が不自由になり、一昨年暮れに亡くなるまでお世話。思い出すとこれが初めての介護体験でした。今はその亡き大家のうちにそのまま住んでいます。元業界新聞記者、現ライター。

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