第20回 可視化できないものの価値とは
コラムの最後のプロフィール欄に、趣味はゲームと鉄道に乗ることと書いているが、私は将棋も好きだ。決して強くはなく、駒の動かし方とルールを一通り心得ている程度だが、令和のスターである藤井聡太五冠(2022年10月時点)が登場する前からタイトル戦などの様子はウォッチしていた。
今でいう「観る将」である。最近の対局中継ではAIの飛躍的な発達によりどちらが優勢なのか、次にどんな手が候補なのかなど、様々なことが可視化された。それをわかりやすいと感じる人と、つまらないと感じる人がいるだろうが、私は後者である。一目ではわからず、考えながら観るからこその面白さもあるのだ。数値化し可視化することが、全ていいこととは限らないと感じている。
さて、日本は介護も医療も皆保険制度を採っている。ケアや診療の内容に対する「点数」を決めて、その合計に応じた金額が事業者や医療機関に支払われる仕組みだ。国民全体で保険料を負担するかわりに、どこに住んでいても誰もが一定の負担で一定の水準の介護サービスや医療を受けることができる。
また、国としては点数を変えることによって期待しているケアや治療の方向性を示すこともできる。いいこと尽くめのようにも見えるが、私は最近この制度の課題を感じることがよくある。
「誰もが一定の負担で一定の水準の介護サービスを受けることができる」というのは、裏を返せば「ケアの満足度に関わらず負担は同じ」ということでもある。このコラムで何度も書いてきたが、ケアとは利用者の日常を支えるものだ。利用者が大切にしたいことと、事業者とヘルパーができることを共有し、課題があれば話し合い、互いに納得できるケアをつくるプロセスこそがコミュニケーションである。それができているかどうかが利用者のケアへの満足度を左右するが、それを数値化、可視化することはなかなか難しい。
では。どんなケアが望ましいのだろうか。時間通りに安全に行うのは当然だが、ヘルパーが利用者の意図を理解して行うケアは、満足度が高まると私は思っている。たとえば、私は近所のスーパーに行く際に手動車椅子を押してもらい、帰宅時には不要な端切れでタイヤを拭いてもらう。後輪にはカバーがあるが前輪にはないため、端切れが綺麗なうちに前輪からしっかり拭いてほしいと説明する。だが、ケアに入ってからしばらく経つと後輪から拭くようになるヘルパーが後を絶たない。大きく目立つ後輪から拭きたくなる気持ちもわかるが、こちらの希望を覚えてくれていないことにがっかりしてしまう。
また、写真にあるように、私は左肘を固定すればある程度自力で食事ができる。しかし、1年以上ケアに来ているのに料理の右側にスプーンとフォークを置くヘルパーがいる。自分で置き直せばいいことなのだが、そのヘルパーは私が食べているところを見ていないのだろうか、それとも私に興味がないのだろうかと、やるせない気持ちになる。
さらに、母も脳梗塞の後遺症のため家事支援のケアを受けている。一年以上ケアに来ているヘルパーに、ゴミ捨ての手順が違っていたためきちんと覚えてほしいと母が頼んだところ、「私は家政婦として来ているわけではなく、お母様ができないことをお手伝いしに来ているので、手順を間違えたら毎回きちんと教えてください」と言われたことがあった。前半部分は間違いではないが、だからと言ってケアの手順を覚えなくていいことにはなるまい。
私も母も、家の中に張り紙をしたり都度理由を含めて手順を説明したり、人によってお願いする内容や調理のメニューを調整したりと、ヘルパーがやりやすいように腐心している。多くの現場と利用者のケアに携わるのだから、たまに忘れてしまうこともあるだろう。それは仕方ないとしても、できる限り覚えてほしいと頼んだ結果反発されては戸惑うばかりだ。共にケアをつくり、良くしていこうという気概が感じられない相手に、細かい部分まで説明してお願いしようという気持ちは湧いてこない。
結局、私と母はケアへの期待値を下げ、そんなものだと諦めてしまうことがある。そしてこのことは、ケアの実績記録や請求の状況だけを見てもわからないのだ。現に私の日常生活は破綻してはいないし、ケアに穴が空いたわけでもないが、改善してほしい点は少なからずある。ケアへの満足度は、記録には残らないことが大きく影響しているのだ。
私が若い頃、クレジットカードのCMで「◯◯、◎◎円、△△、▽▽円、☆☆、プライスレス」というものがあった。ここでプライスレスなものが最後に登場するのは、それが最も人の心を動かすからだろう。それは、観光業でも販売業でも、医療でも介護でも同じことではないだろうか。利用者側と事業者側がケアに必要なことをどこまで共有できているのか、数値化し可視化することは難しい。まして、それを制度に組み込むことは不可能に思える。しかし、可視化できないからといってそのものに価値がないわけでは決してない。むしろ、可視化できないところに利用者の本音や真のニーズは潜んでいるものだ。
ヘルパーも事業者も、利用者から直接の指摘やクレームがないからケアに満足していると安易に判断せず、折に触れて利用者とケアについて話してみてほしい。そして利用者は、大切にしたいことは腐らずに伝え続けるように心がけるべきだ。目に見える“わかりやすいもの”だけにとらわれず、目には見えない“不確かでも大切なもの”にもきちんと目を向けることができる自分でありたいし、そんな社会であってほしいものだ。
加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。