私が今まで生きてきた中で、生と死について考えるきっかけになった出来事が3つありました。
ひとつ目は小学4年生の時のことです。当時私の住まいは東京都江東区、父方の実家は東京都墨田区にあったため、小学生低学年のうちは日曜日のたびにと言ってもいいくらい、両親とともに祖父母の家に遊びに行っていました。私が生まれた時からすでに難聴があった祖父。祖父の口から発せられる言葉はいつも、もごもごと口ごもっていて子どもの私にとっては何を言っているのかわからず、孫ながらにとっつきにくいというか、少し怖い存在に感じておりました。そして私が4年生の時、祖父の容体が徐々に悪くなり、あっという間に亡くなってしまいました。
私にとっては初めての身内の死。目の前で行われている、通夜、告別式にただただあっけにとられるだけで、何の感情の起伏も感じることなく葬儀が終わりました。それから二週間ほど経った頃でしょうか、週末に祖父母の家に行きました。当然ですがそこに祖父の姿はありません。この時始めて祖父の死を実感しました。『もうおじいちゃんはどこにもいない』。それまで、人が死ぬ、ということを漠然としか理解していなかったのでしょう。いるはずの場所に祖父がいない事実を見て始めて祖父の死を理解し、二度と会えないことに涙しました。そして思い浮かぶ祖父の顔は笑っていました。あれほど苦手意識しかなかった祖父だったのに・・・。この時始めて、身近な人が亡くなるということがどういうことなのかわかりました。
ふたつ目は高校一年生の時のことです。当時33歳だった従兄が亡くなりました。何かの持病があったわけでもなく、心不全による突然の死でした。父方の親戚ですので祖父の時と同じ顔ぶれで告別式が行なわれたわけですが、祖父の時とはだいぶ様子が違います。祖母、伯父伯母の取り乱し方が、祖父の時とは全く違います。もちろん祖父の時も皆、悲しんでいたし、涙している人もたくさんいました。けど、今日は皆、悲しみを通り越して、怒りにも近いような行き場のない感情を露わにしています。『おにいちゃんに二度と会えなくなるのは悲しい。でもおばあちゃんやおじちゃん達の悲しみ方は何か自分と違う』。
この違いがはっきりとわかったのは私自身が伯父になり親になった時でした。甥っ子や長男が生まれた時、始めて感じた思い、『自分の命を危険にさらしたとしてもこの子たちの命を優先させるだろう』。これは理屈や感情ではなく本能にも近いような感覚だと思います。祖母や伯父たちにとっては、孫、子、甥が自分より先に死を迎えてしまったことを嘆いていたんだとわかりました。それに気づいたとき、私は一つ誓いました。『この世で一番の親不孝は親より先に死ぬことなんだ。絶対に親より先に死なない』。今のところは守られています。
みっつ目は今から7年前の次男が産まれた時のことです。里帰り出産のため、妻と長男は島根県にある妻の実家にお世話になっておりました。いざ、その日を迎え、いつも通りデイサービスの仕事をしているところで連絡が入ります。『産まれた』。おお、ご苦労様、とねぎらいの言葉をかける間もなく次の言葉が続きます。『赤ちゃん、明日にでも手術をしないといけないから、今すぐに来て』。はっ?とにかく手術の同意書に両親二人共のサインがないとできない、ということなので休み予定だったスタッフにお願いして急遽翌日から3日間の休みをいただき、仕事を終わらせたその足で車で羽田空港に向かいました。もちろん心中はとても平静でいられる状況ではないですが、両親より先に死ぬわけにはいきませんから、できるだけ落ち着けるようにと何度も深呼吸しながら高速道路を走りました。病院に着き、産まれたばかりの我が子に対面したのは救急車に乗せられるその瞬間でした。出産した病院には小児外科がなかったためすぐに転院、そして転院した先で夜に手術するとのことでした。おいおい、産まれた瞬間から芸能人並みに忙しいやっちゃな、お前。と思いながらも、手術中の病院に付き添い『とにかく、最悪の親不孝だけはしないでくれ』と祈りながら長い長い時間が過ぎていきました。
その日から早いもので7年が経ちました。1歳ごろまで数回の手術をし、現在でも日常的な医療ケアの必要性はあるものの、今年の4月から長男と同じ小学校に入学し、毎日のようにくだらない兄弟げんかを繰り返している日々です。産まれた日、たびたびの手術を振り返ってみると、この子が産まれたのがもし50年前だったら、とっくに亡くなっていたのかもしれない。この時代に産まれ、私と妻のもとに産まれてくれたことはすべて運命のように思えてなりません。安直な発想かもしれませんが、とにかく甥と長男と次男、みんな私より長生きしてください。
そんな次男から言われました。
「父ちゃん、死んじゃったら○○ボール7個集めて生き返らせてあげる」
・・・なるほど、それが今の君の死生観なんだね・・・。
※渡邊知朗プロフィールはこちら
ひとつ目は小学4年生の時のことです。当時私の住まいは東京都江東区、父方の実家は東京都墨田区にあったため、小学生低学年のうちは日曜日のたびにと言ってもいいくらい、両親とともに祖父母の家に遊びに行っていました。私が生まれた時からすでに難聴があった祖父。祖父の口から発せられる言葉はいつも、もごもごと口ごもっていて子どもの私にとっては何を言っているのかわからず、孫ながらにとっつきにくいというか、少し怖い存在に感じておりました。そして私が4年生の時、祖父の容体が徐々に悪くなり、あっという間に亡くなってしまいました。
私にとっては初めての身内の死。目の前で行われている、通夜、告別式にただただあっけにとられるだけで、何の感情の起伏も感じることなく葬儀が終わりました。それから二週間ほど経った頃でしょうか、週末に祖父母の家に行きました。当然ですがそこに祖父の姿はありません。この時始めて祖父の死を実感しました。『もうおじいちゃんはどこにもいない』。それまで、人が死ぬ、ということを漠然としか理解していなかったのでしょう。いるはずの場所に祖父がいない事実を見て始めて祖父の死を理解し、二度と会えないことに涙しました。そして思い浮かぶ祖父の顔は笑っていました。あれほど苦手意識しかなかった祖父だったのに・・・。この時始めて、身近な人が亡くなるということがどういうことなのかわかりました。
ふたつ目は高校一年生の時のことです。当時33歳だった従兄が亡くなりました。何かの持病があったわけでもなく、心不全による突然の死でした。父方の親戚ですので祖父の時と同じ顔ぶれで告別式が行なわれたわけですが、祖父の時とはだいぶ様子が違います。祖母、伯父伯母の取り乱し方が、祖父の時とは全く違います。もちろん祖父の時も皆、悲しんでいたし、涙している人もたくさんいました。けど、今日は皆、悲しみを通り越して、怒りにも近いような行き場のない感情を露わにしています。『おにいちゃんに二度と会えなくなるのは悲しい。でもおばあちゃんやおじちゃん達の悲しみ方は何か自分と違う』。
この違いがはっきりとわかったのは私自身が伯父になり親になった時でした。甥っ子や長男が生まれた時、始めて感じた思い、『自分の命を危険にさらしたとしてもこの子たちの命を優先させるだろう』。これは理屈や感情ではなく本能にも近いような感覚だと思います。祖母や伯父たちにとっては、孫、子、甥が自分より先に死を迎えてしまったことを嘆いていたんだとわかりました。それに気づいたとき、私は一つ誓いました。『この世で一番の親不孝は親より先に死ぬことなんだ。絶対に親より先に死なない』。今のところは守られています。
みっつ目は今から7年前の次男が産まれた時のことです。里帰り出産のため、妻と長男は島根県にある妻の実家にお世話になっておりました。いざ、その日を迎え、いつも通りデイサービスの仕事をしているところで連絡が入ります。『産まれた』。おお、ご苦労様、とねぎらいの言葉をかける間もなく次の言葉が続きます。『赤ちゃん、明日にでも手術をしないといけないから、今すぐに来て』。はっ?とにかく手術の同意書に両親二人共のサインがないとできない、ということなので休み予定だったスタッフにお願いして急遽翌日から3日間の休みをいただき、仕事を終わらせたその足で車で羽田空港に向かいました。もちろん心中はとても平静でいられる状況ではないですが、両親より先に死ぬわけにはいきませんから、できるだけ落ち着けるようにと何度も深呼吸しながら高速道路を走りました。病院に着き、産まれたばかりの我が子に対面したのは救急車に乗せられるその瞬間でした。出産した病院には小児外科がなかったためすぐに転院、そして転院した先で夜に手術するとのことでした。おいおい、産まれた瞬間から芸能人並みに忙しいやっちゃな、お前。と思いながらも、手術中の病院に付き添い『とにかく、最悪の親不孝だけはしないでくれ』と祈りながら長い長い時間が過ぎていきました。
その日から早いもので7年が経ちました。1歳ごろまで数回の手術をし、現在でも日常的な医療ケアの必要性はあるものの、今年の4月から長男と同じ小学校に入学し、毎日のようにくだらない兄弟げんかを繰り返している日々です。産まれた日、たびたびの手術を振り返ってみると、この子が産まれたのがもし50年前だったら、とっくに亡くなっていたのかもしれない。この時代に産まれ、私と妻のもとに産まれてくれたことはすべて運命のように思えてなりません。安直な発想かもしれませんが、とにかく甥と長男と次男、みんな私より長生きしてください。
そんな次男から言われました。
「父ちゃん、死んじゃったら○○ボール7個集めて生き返らせてあげる」
・・・なるほど、それが今の君の死生観なんだね・・・。
※渡邊知朗プロフィールはこちら