剛力彩芽の歌から見る、下手を消す社会の愚

間傳介


先日家内とのお喋りの中で、芸能人・剛力彩芽さんの歌唱力の話になりました。

今はほとんど触っていないTwitterをよく見ていた2、3年前だったでしょうか。どうも生放送の番組で口パクでない、生歌を披露したところそれが評判がよろしくなかったということらしい。ということは遠巻きに私も知ることになっていたように記憶しています。

SNSで意見を言い易くなったのはいいですが、ただ他人の意見に乗っかるだけの人というのはなんたる虚しい生だろうと日頃思っておりますので、その時も特段剛力さんご本人についても興味がなかったということもあり、先日家内と話す折も、「はあ、そんなことあったそうですなあ」というくらいの、無意識に息を吐くぐらいのテンションで話していたわけですが、ふと、手元のiPhone様にお尋ねしたところ、「これこれこう言った動画、ございますウェブ上に」とご提示いただいたもので早速、見ずに聴かずに物言うのもつまらないね、と思い直しまして、拝見、拝聴仕った次第でして。

とりあえず検索画面1番上に表示されたものを流してみますと、「それは音源版である故、生の歌唱、これ、まさに選択すべし」と家内より案内を頂きまして、さて剛力彩芽さんの口パクでないところの歌唱をいよいよ耳にした訳です。

上述のTwitterで、或いはニコニコ動画等で、ひたすらに茶化され嘲笑されていたところの剛力さんの歌唱、実は私は掛け値なく衒いなく、胸を打たれました。「ああいいなあ」と真から感じました。

彼女の歌に対して並べられている批判というのは、「下手」とか「調子っぱずれ」とか、「コンセプトがわからん」とか、「代理店の誰も責任取らない仕事」とかそういうことであって、はっきり言って愚にもつかないものがただ数多くあるに過ぎないのです。
こういうものは海辺の砂みたいなものであると思います。形ができるようだけど、すぐ変わっていくことを砂粒ひとつひとつは一切感知しないしできない。そういう現象に過ぎない。と思う訳です。

バッサリ行きます。
音楽は「下手」を生かすものです。「下手」ということで音楽に序列がつくと思ってる人間は無音の世界にでも行けばいいと思います。
大体誰と比べてどう「下手」なのか、誰が基準なのか、上手いということで下手になるというパラドクスをどう考えているのか。と今三つあげたことを検証していけば、「下手」ということを事前と同じ心もちで言える人間はいないでしょう。

歌謡曲の中でも、おそらく楽器の出している音階に収まっていない音程で歌う歌手といえば、浅田美代子さんとか、左卜全先生とか、音程が合っていないということがどうでも良くなるような「その人」という歌を聴かせる人という方々はおられます。
海外のロックなんかそんなもんで、最長老ロックバンド・ローリングストーンズの“サー”ミック・ジャガーさんなんて未だに音程を探しながら入ったりします。そんなこと指摘されているんでしょうか。

日本に昔からある楽器、琵琶尺八等々、和楽器というのは正弦波(sinθ波)以外の音を「障り」と呼んで、「障りが出ないとものでない」と言いますし、尺八の古い楽典などには、音階の指定はなく、テクスチャ、つまり「感じ」の指定が延々細かく並べられ、「曲」と為されている訳です。

つまり日本人的感覚で言えば、「音階のズレは些末なものというよりむしろ本題でないことだ」ということが言えるわけです。

しかし私も分からず屋ではないですから、明治以降の音楽教育、えんやこら西洋に合わせよう、欧米列強に寄せようとしてきたその中にあって、かれこれ百とうん十年、西洋音楽がデフォルトとして我々のナチュラルボーン的音感を形作っているということを反論としておっしゃる方、これを一顧だにしないというわけではありません。

一定わからんでもないですが、昨今、音楽制作にあたって、機材はほとんどデジタル化されております。それは一般社会と比して尚更であると言えます。

そこで必ず、ほぼ99.99%ドレミの音階「ミ」に関してはこれを440㎐と定めています。ここ50年音楽に関わった人は皆、この周波数を基準としてやっております。

しかしこの基準、実はなんとなーく会議で決まったものだということ、これはご存知でしょうか。これがあるために、その後電子鍵盤楽器等はいっせいにこの音階に統一され、それと少しでも違うともうちょっと上げろ下げろ、という話になるわけです。

人間自分の実感とそぐわないことを強制されますと、それを他人にも強要するようになりますが、合唱合奏という集団的かつ社会的音楽によってこれが拡散浸透していっただけに過ぎない訳です。

さて、音楽は「下手」を活かすものだ。
と言いました。私の申すこの「下手」という相対語は、出発点をここに置いています。

どっかの誰かが勝手に決めた「ミ=440㎐」という基準は、「おらが村では楽しくやるときはこうやって歌うだよ、鳴らすだよ」という心地よさの何千年と積み重なってきた愛しい土地土地の響きを、「ア、ちょっとその音何㎐か上げ過ぎちゃってるね〜、下げよっか」と傍若無人に駆逐していったのです。悪貨は良貨を駆逐するのならわしそのままに、音楽をいまの十二音階に均してしまいました。

昔のロックは良かったというおじさん、その耳実は正しかったのです。
例えば1960年代に活躍したthe doorsの『ハートに火をつけて(原題:light my fire)』は、ミに相当する音が450㎐辺りを基準に音階を決められています。

1950年ごろ、ドアーズの面々からすれば、こまっしゃくれたおっさん共が勝手に決めた調律基準など耳に入っていないか、どうでも良かったのではないかと思います。

さて、剛力彩芽さんの歌に関してですが、音源の方は先ほどお伝えした通りのかっちりデジタル機材によって、歌声は基準に沿った音階に調整をかけられているので「ミ=440hz」の基準から言って「下手」ではないようです。
生で歌ったが為に、一見これは悪評が立ったとも言えなくはないのですが、でもどうですか。みんなこれで凡百の「上手」な歌手より「剛力彩芽の歌」の方が記憶に心に残ってしまったではありませんか。
それは立派に彼女の歌の力に他ならないではありませんか。
取るに足らない「上手」な音楽というものはこの世に掃いて捨てても捨て切れないほどいっくらでも頼んでいないのにもかかわらず、誰の印象にも残らないのにも関わらず量産されています。
私から言わせて貰えば、そのほとんど全てが剛力彩芽の歌の足元にも及ばないのです。

元ZOZOの前澤氏といい感じに戻ってフェイドアウトしていくのでなければ、私はもうダイレクトにデジタルで音階調整などせず、ドンドン歌っていただいて、3年にいっぺんぐらいアルバムを出し続けて欲しいなと思っています。

これを天邪鬼の逆張りだと思う方がもしおられたら、是非一昨日、お越しいただければよろしいかな、と、そう思う次第です。

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