比較的自由度の高い会社に居させてもらったことで、
この混乱の中で露頭に迷うことは少なかったと思う。
いろんなことを十分に考えることができる時間を確保することができたし、
毎朝決められた時間に通勤するようなことがそもそもなかったため
感染からは遠いところにいることができたと思う。
満員電車で通勤していたあの頃の仲間はどうしてるかな。きっと時間差通勤が可能になっていると思う。
感染リスクの少ない手段をいち早く取り入れていると思う。
なぜなら、私の尊敬する優れた所長がそこにいるから。
とても素早く判断し、そしてまだ痒くないところにまで手が届く。
この人の部下でよかったと
当時東日本大震災の時にそう感じた。
出向先の都内某メーカーのビルの駐車場に私が非難したのが早いか
彼が来たのが早いか、
「所長、心配してきてくださったんですか!こちらの出向スタッフは無事です!」
あの時所長がきてくれて本当に心強かった。
地震の被害があり、コロナの被害があり、
それでも私は生きている。
みなさんもそうだと思う。
しかし、
地球が誕生した時点で、終わるまでの秒読みが開始されている。
地球が終わるまでの過程はすでに決まっていて、
私たちも、生まれた時点で死までの時をゆっくり刻んでいる。
その間、
新しい常識と非常識は誕生しては生まれ変わり、
時に非常識を選びながらも、
また新たな常識を好んで選んだり。
そして何が常識になるかは予測できなくとも、必ず来ることが決まっている。
慌てない・怯えないことだと思う。
始まってしまった夏休みは、必ず終わる。
そして新学期が始まれば、きっと冬休みが来る。
0kmで進む車はいつまでも目的に辿り着かないが
少しでも車輪が回ればいつか目的に辿り着く。
結果は決まっていても、
そこまでの過程に誠意と全力を尽くす。
壊れてしまうかもしれない人生に怯えて動けないなら、
それを壊さないようにするためにはどうすればいいのか。
それを考えて行動するしかないんじゃないかな。
そしてもう一つ。
地震に遭って怖い思いをしたり、風邪ひいてこのまま死んじゃうんじゃないか。
なんてことを思うけど、
こうしてまた日常に戻った時、
「おっかなかっただろ?」
って神様が言うならば、
「はい!普通のありがたさに気付かされました。おかげさまで毎日を存分に生きています」
そう言いながらそれを忘れずに生きていこうと、つくづくそう思う。