利用者・加藤拓の経験”知”

加藤 拓


第35回 多様性再考(前編) ~盛んに謳われる多様性は本物なのか~

昨年の夏頃まで、月に一度「BOZUカフェ」というお坊さんと食事しながら対話する会に参加していた。そのイベントでは一方的にお坊さんの説法を聞くのではなく、毎回のテーマについて参加者全員で語り合い、互いの考えを知り対話する。
その中で印象的だったのは死生観、特に死後のイメージを語り合ったときだ。私は何度か生まれ変わって“合格”したら成仏して終わる、かなり大雑把に輪廻のようなイメージをしていた。
日本人の大半はお坊さんを呼んで葬儀を行うため、皆だいたい似たようなものかと思っていた。しかし他の参加者は

「死んだら消えて終わり!後腐れなくていい!」
「あの世はあっても生まれ変わりはない、というかもういい(笑)」
「そもそもうちは神道だから輪廻は信じていない」

などと答えていて、実に多様な考えがあることを知った。会の雰囲気はとても優しくあたたかいもので、私にとって楽しく大切な時間だった。

翻って今の日本社会を考えると、多様な考えを認め合うというよりは、異なる考えの相手を攻撃してねじ伏せようというような動きが目につく。さらに頭が痛いのは、相手を攻撃する大義名分として「多様性の尊重」というフレーズが利用されている節があることだ。

誰しも、自分の存在を認め、自身の意見に共感してもらいたいものだ。当然、私にもその想いはある。
私が理解に苦しむのは、主にマイノリティや弱者と認識されている人々の主張に異論をとなえたり共感できないと表明したりしただけで、「そんなの差別だ」「多様性を軽んじるひどい人だ」などとバッシングする人々がいることだ。
多様性の尊重を標榜するなら、意見を認めてくれない相手を「ひどい人」として糾弾するのは矛盾も甚だしい。自身の意見に対してどこまで共感し、協力するのかを相手に委ねなければ筋が通らないではないか。そもそも、自分と異なる特徴や考え方を持つ人に対してある種の負の感情を抱いてしまうこと自体は止められないし、仕方ないと私は考えている。
私は日によって筋緊張の状態が違い、調子の良くないときはいつも以上に動きがぎこちなく、呂律もよく回らない。それを側から見た人が「変な動きしてるな」とか「近寄りがたいな」と感じても仕方ないことだ。
それを理由に誹謗中傷されたり理不尽な対応をされたりするなら、私も抗議したり怒りを表したりする。しかし、そうでなければ他人の感情にあれこれ言う気はないし、そもそもそんな権利など私はおろか誰にもないのだ。

また、多様性の尊重を盾に自分達の主張を丸呑みさせようというのも無理筋である。たとえば、私にとって多目的トイレは本音では身障者専用トイレであってほしい。
だが、広いスペースのトイレを要する人は車椅子ユーザーだけではないし、専用となると不公平感が強く整備が進みづらくなっただろう。横断歩道の車道と歩道の段差は私にとっては“バリア”だが、視覚障害者にとっては白杖等で車道と歩道の境目を知るために必要なものだ。
このように、特定の人々の要望を実現するために、他の人々の権利を大きく損ねることはあってはならないのである。

さらに言えば、あまりにも性急に社会の変容を求める主張が目立つのも気がかりだ。
第18回のコラムにも書いたが、法整備がなされて人々の意識が変わり、より多くの人が暮らしやすい社会に変わっていくまでには膨大な時間とエネルギーを要する。交通機関や街のバリアフリー化が進む道のりも、険しく曲がりくねっていた。
時には「川崎バス闘争(※1)のような激しいぶつかり合いもありながら、当事者と関係者が話し合いともに汗を流してきた。その結果、鉄道やバスに介助者なしでも乗車できるようになり、後に交通バリアフリー法が制定され、より多くの人にとって利用しやすくなった現在の交通機関や街がある。
今日の便利な状態に慣れると、「当時の人々はなぜもっと早くバリアフリー化を進めなかったのか!?」と疑問に感じる人もいるだろう。だが、健康診断後にドクターから「生活習慣を改めよ」と言われてもすぐにできる人はあまりいないように、たとえ“正しい”考え方であっても、人々がそれを受け入れて考えを改め、行動を変えるまでには多くの時間ときっかけが必要なのだ。
昨今の多様性をめぐる報道や社会の動きを見るに、この点が軽視されているように思えてならない。一部の当事者の性急で“強い”主張ばかりをメディアが垂れ流す現状は、少なからぬ人の反発を招く恐れがあり、結果的に誰も幸せにならないのではないだろうか。

本当に多様性のある社会は、何か1つのきっかけでスマートに出来上がるものでも、インフルエンサーがインターネット上で何度かバズらせた程度で実現できるものでもない。
当事者と関係者の息の長い、そして泥臭い努力の積み重ねが、時間をかけて少しずつ人々に浸透した結果として近づいていくものだ。多くの人にとっては「いつの間にかそうなっていた」と感じるくらい緩やかな変化であればこそ、反発せず無理なく受け入れられるのである。
認めて共感しなければ叩かれるような紛い物の多様性を掲げて、一部の当事者が一方的で急進的な主張を声高に叫び、メディアがそれを後押しする。一人でも多くの人が矛盾に気付きこの構図を変えなければ、日本社会が本当に多様性のある社会に近づくことはない。
多様性という言葉が相手をねじ伏せるための錦の御旗になってしまうのなら、使わない方がいいのではないかとさえ思えてしまう。そんな私もまた、一方的で急進的な主張をしているのだろうか。

加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。

(※1)川崎バス闘争

1977年に脳性麻痺当事者の会である「青い芝の会」のメンバーと支援者が起こした事件。
会のメンバーと支援者の介助者らが全国から川崎駅前に結集し、駅前に停車中の路線バス(川崎市バス・東急バス・臨港バス)に乗り込みバスジャックを行った。
運転席のハンドルを破壊し、車内備え付けのハンマーで窓ガラスを割り、拡声器を出して演説するなどして暴れ、約30台のバスに深夜まで立てこもった。
強引にバスに乗り込んだり、介助者がバスに乗せて車椅子の障害者を置き去りにしたり、バスの前に座り込んで運行を止めたり、バス車内で消火液をぶちまけるなどの実力行使に出た。
この事件は、当時のテレビニュースや新聞などマスメディアでも大きく報じられ、暴力を伴う実力行使には大きな批判もあったが、公共交通機関におけるバリアフリーや乗車の問題に一石を投じた。

この事件の背景として、川崎市内の路線バス(川崎市バス・東急バス)で、青い芝の会メンバーの車椅子での単独乗車に対する乗車拒否問題があった。
青い芝の会は、運輸省(現:国土交通省)や東京陸運局(現:東京運輸支局)とたびたび話し合いの場を持ったが、当時のバス車両の仕様もあり、問題解決に至らなかった。
当時のバスは床の高いツーステップバスで、車椅子用リフトやスロープ板もなく、車椅子利用者は介助者に抱え上げて乗せてもらう必要があり、安全上の理由で介助者同伴でなければ乗車が認められていなかった。介助者がいなければ運転手が持ち上げて乗せるしかなく、腰を痛める運転手もあった。

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