2007年の夏、私は女の子を出産した。
「………赤ちゃんは無事ですか?手足はちゃんとありますか?」
全身麻酔から約1時間。手術が終わり、病室に戻るストレッチャーの上で私は目を覚ます。まだ意識は朦朧としていて、自分が今どこにいるのかもよく分からない状態だった。側にいた病院のスタッフから「大丈夫!赤ちゃんは無事ですよ」と聞き、ホッとした私は緊張の糸が切れたのか、また意識が遠退いていく。
よく全身麻酔中に悪夢を見るというが、私が見た夢は「介護者に当日ドタキャンされ、必死で代わりの人を探す」という現実的なものだった。ある意味、一番の悪夢かもしれない…。
病室のベッド上で、ぺったんこになった自分のお腹をみた。ほんの数時間前まで何をするにも重たく苦しかった大きなお腹が、まるで風船が破裂したかのように目が覚めると消えていた。そんなお腹を眺めていると、フッと不安な気持ちが湧いてくる。「もしかしたらお腹に赤ちゃんがいたのは夢だったのではないか?」と。
妊娠がわかってからの約8ヶ月間。それまで生きてきた中で一番辛く苦しい期間だった。
私は、アテトーゼ型の脳性麻痺で不随運動と筋緊張の激しく、極度の肩こりに悩まされている。そのため、普段から何種類かの筋弛緩剤を服用していた。でも、妊娠中は胎児への薬の影響を考えると筋弛緩剤の服用は避けなくてはならない。医師と相談して薬の調整も出来たのだろうが、100%影響がない訳ではないから私は筋弛緩剤を飲まない事にした。
しかし、これが地獄だった。薬を止めた途端、全身に強く筋緊張が入る。身体は剃り気味になり、座位が取りづらくなり、ベッドで横になっても何処かに力が入ってしまい少しの時間も休めない。呼吸をするのも上半身の筋肉がつっているため激痛が走る。
まるで、透明人間に全身を強い力で押さえつけられたり無理矢理折り曲げられたりしているような毎日が続き、自分の身体に自分が殺されるんじゃないかと思うほどだった。そんな毎日ではあったが、幸いなことに私は悪阻などの症状が殆ど無く、胎児も母親の状況など全く関係ないかの様に何の問題も無くすくすく育っていった。
私は、シングルマザーとして出産し、介護者と共に子供を育てていかなければならない。
パートナーになるはずだった相手は、様々な事情で「家族」として生活していく事が難しかった。それに身体障がいがある自分と、身体に障害がない相手との一般的な結婚という形は不向きだと考えていたからだ。家族介護の考えが未だ根強い日本において、どんなに頑張っても肉体的・経済的な面でどちらか一方への負担がかかりすぎる。
「結婚をしない」という選択をした私は、当然の事だか周囲からとても不安がられた。特に病院の対応は厳しかった。
妊娠中期に入ったころ、いつものように産婦人科の検診を受けた。一通りの検査も終わり、胎児も順調に育っている事が確認されて安心し帰ろうとしたとき「医師から話がある」と呼び止められた。診察室に戻ると、それまで診てくれていた医師とは違う医師が物珍しいそうに私と側にいた介護者を見た。カルテを見ながらその医師がいう、
「あなたご結婚は?」
「してません。子供は介護者たちと育てたいと考えてます」
この時には、もう殆ど24時間介護派遣はされている状態だったので介護の面では「大丈夫だろう」と少し安易に考えいた部分もあった。
私の言葉を聞いた医師は「介護者と言っても他人でしょ。その人たちが居なくなったら、子供の面倒は誰がみるの?」と問いただす。
「その時は介護をしてくれる人を探します。今までもそうして生活してきました」
たぶん、産婦人科の医師はヘルパー制度など全く知らない人だったんだろう。私の横にいる介護者を、私の友人かボランティアくらいにしか思ってなかったのかもしれない。私には責任が取れないと判断したらしく
「明らかに育児ができないと分かってる人の出産は引き受けられません!しかし、どうしてもと言うなら生まれて来た子供は施設に預かってもらうしかありませんね!!」
まさか、このような言葉を産婦人科の医師から言われるとも思ってなかった私は頭が真っ白になり何も言えない。一緒にいた介護者も何も言えず、病院の出入り口で2人で泣いてしまった。あまりにもショックでその後の記憶はあまりない。
家に帰ってからも、医師から言われた言葉が頭から離れない。いつにも増して身体中に筋緊張が入ってしまい呼吸困難にまでなった。
後編に続く
平田真利恵(ひらたまりえ)
昭和53年生まれ、脳性麻痺1種1級。
2002年の秋、「東京で自立生活がしたい」という思いだけで九州・宮崎から上京。障害者団体で2年ほど自立支援の活動をした後、2007年女の子を出産。シングルマザーとして、介護者達と二人三脚で子育て中。 地域のボランティアセンターで、イラスト作成や講演活動を行なっている。
「………赤ちゃんは無事ですか?手足はちゃんとありますか?」
全身麻酔から約1時間。手術が終わり、病室に戻るストレッチャーの上で私は目を覚ます。まだ意識は朦朧としていて、自分が今どこにいるのかもよく分からない状態だった。側にいた病院のスタッフから「大丈夫!赤ちゃんは無事ですよ」と聞き、ホッとした私は緊張の糸が切れたのか、また意識が遠退いていく。
よく全身麻酔中に悪夢を見るというが、私が見た夢は「介護者に当日ドタキャンされ、必死で代わりの人を探す」という現実的なものだった。ある意味、一番の悪夢かもしれない…。
病室のベッド上で、ぺったんこになった自分のお腹をみた。ほんの数時間前まで何をするにも重たく苦しかった大きなお腹が、まるで風船が破裂したかのように目が覚めると消えていた。そんなお腹を眺めていると、フッと不安な気持ちが湧いてくる。「もしかしたらお腹に赤ちゃんがいたのは夢だったのではないか?」と。
妊娠がわかってからの約8ヶ月間。それまで生きてきた中で一番辛く苦しい期間だった。
私は、アテトーゼ型の脳性麻痺で不随運動と筋緊張の激しく、極度の肩こりに悩まされている。そのため、普段から何種類かの筋弛緩剤を服用していた。でも、妊娠中は胎児への薬の影響を考えると筋弛緩剤の服用は避けなくてはならない。医師と相談して薬の調整も出来たのだろうが、100%影響がない訳ではないから私は筋弛緩剤を飲まない事にした。
しかし、これが地獄だった。薬を止めた途端、全身に強く筋緊張が入る。身体は剃り気味になり、座位が取りづらくなり、ベッドで横になっても何処かに力が入ってしまい少しの時間も休めない。呼吸をするのも上半身の筋肉がつっているため激痛が走る。
まるで、透明人間に全身を強い力で押さえつけられたり無理矢理折り曲げられたりしているような毎日が続き、自分の身体に自分が殺されるんじゃないかと思うほどだった。そんな毎日ではあったが、幸いなことに私は悪阻などの症状が殆ど無く、胎児も母親の状況など全く関係ないかの様に何の問題も無くすくすく育っていった。
私は、シングルマザーとして出産し、介護者と共に子供を育てていかなければならない。
パートナーになるはずだった相手は、様々な事情で「家族」として生活していく事が難しかった。それに身体障がいがある自分と、身体に障害がない相手との一般的な結婚という形は不向きだと考えていたからだ。家族介護の考えが未だ根強い日本において、どんなに頑張っても肉体的・経済的な面でどちらか一方への負担がかかりすぎる。
「結婚をしない」という選択をした私は、当然の事だか周囲からとても不安がられた。特に病院の対応は厳しかった。
妊娠中期に入ったころ、いつものように産婦人科の検診を受けた。一通りの検査も終わり、胎児も順調に育っている事が確認されて安心し帰ろうとしたとき「医師から話がある」と呼び止められた。診察室に戻ると、それまで診てくれていた医師とは違う医師が物珍しいそうに私と側にいた介護者を見た。カルテを見ながらその医師がいう、
「あなたご結婚は?」
「してません。子供は介護者たちと育てたいと考えてます」
この時には、もう殆ど24時間介護派遣はされている状態だったので介護の面では「大丈夫だろう」と少し安易に考えいた部分もあった。
私の言葉を聞いた医師は「介護者と言っても他人でしょ。その人たちが居なくなったら、子供の面倒は誰がみるの?」と問いただす。
「その時は介護をしてくれる人を探します。今までもそうして生活してきました」
たぶん、産婦人科の医師はヘルパー制度など全く知らない人だったんだろう。私の横にいる介護者を、私の友人かボランティアくらいにしか思ってなかったのかもしれない。私には責任が取れないと判断したらしく
「明らかに育児ができないと分かってる人の出産は引き受けられません!しかし、どうしてもと言うなら生まれて来た子供は施設に預かってもらうしかありませんね!!」
まさか、このような言葉を産婦人科の医師から言われるとも思ってなかった私は頭が真っ白になり何も言えない。一緒にいた介護者も何も言えず、病院の出入り口で2人で泣いてしまった。あまりにもショックでその後の記憶はあまりない。
家に帰ってからも、医師から言われた言葉が頭から離れない。いつにも増して身体中に筋緊張が入ってしまい呼吸困難にまでなった。
後編に続く
平田真利恵(ひらたまりえ)
昭和53年生まれ、脳性麻痺1種1級。
2002年の秋、「東京で自立生活がしたい」という思いだけで九州・宮崎から上京。障害者団体で2年ほど自立支援の活動をした後、2007年女の子を出産。シングルマザーとして、介護者達と二人三脚で子育て中。 地域のボランティアセンターで、イラスト作成や講演活動を行なっている。