ニュース&ブログ

映画『ハングマンズ・ノット』を君は観たか

映画『ハングマンズ・ノット』を君は観たか

間傳介



私たちは言葉を介し他者とのコミュニケーションを取っています。しかし純粋に言語(少なくとも母国語の、音声、文字、文章の多少なりの理解)だけで理解し合えるかという問いを立てたとき、それは非常におぼつかないものであるのは、オレオレ詐欺の被害者がいなくならないことを見ずとも、誠実に在ろうと一瞬でも思った人間にとっては、明白なことではないでしょうか。

現代は契約書の力が道徳と人間の習性を上回っている。そんな世の中であるように感じます。
スマートフォンアプリの利用規約は、内容的には読解力の平均値を上回り、興味のない文章に向けられる集中力と我慢の限界を遥かに超えて並べ立てられます。
私自身スマートフォンアプリの利用規約を、丁寧に一字一句逃さず読み込んだ経験など一度もなく、憶測に過ぎませんが開発し提供する側とて、全部読んだなんて人間はそういないのではないかと思っています。けれど訴訟等になった場合の凡ゆる場合においても、提供側が守りに入ることができるようにはなっているのではないかなと思います。

前置きはそれくらいにして、『ハングズマン・ノット』という映画をぜひご覧いただきたくて筆を執りました。

ざっと書くと
とんでもない凶悪なヤンキー兄弟が好き放題やんちゃ(殺人含む)をしておるところに、これまた頭のおかしい大学生が拳銃をひょんなこと(強奪)で手に入れた後に出会ってしまって大変なこと(文字通り血の海)になる。
という感じです。

私が1番この映画に惹かれた点は、「ヤンキーの話し言葉のほうが、私にとって体温や言葉に対する誠実さを感じられた」ということです。

「ヤンキーのほうが」と書きました。
この映画に登場するヤンキーはヤンキーという呼称が可愛らしく思えるほど、殺人強姦強盗違法薬物使用放火などやる、極めて悪い人達で、法的にはなんら情状酌量の余地ゼロの方々です。
「方が」ということは比較対象がいるわけですが、この映画で彼らとギャップがある存在として出てくるのが、大学生のボランティアサークルの人たちです。

ボランティアサークルの報告会の場面が出てきますが、彼らの部長と思しき人物が話す内容は、どうやら東北の地震の被災者となった子供たちに「笑顔を届けたい」また被災地を実際に訪問し紙芝居などすることによって「そうした実績を得た」という内容です。

言葉は抽象度が高ければ高いほど、肝心の程度に嘘がつけますし、誤魔化すことができます。正確にいうと誤魔化す心が芽生えやすいのではないでしょうか。

また、「よい」言葉ほど心の底からは遣い辛いのではないかと思います。反対に簡単に「よい」言葉を言える人というのは、個人的に強い猜疑心をもっています。しかしながら、やらない、露悪的なものよりは「やる偽善」の方がよいとは常々感じています。

坂口安吾の随筆で、教師時代を振り返るものがあって、要約すると、不良というのは可愛いものだが、所謂「よいこ」のタチの悪さは手に負えないといった内容です。

私たちの使う言葉は、心とつながらない言葉でも、腹の底から絞り出した言葉でも、活字になってしまった瞬間に「同じ」言葉になってしまいます。

つまり、経験を真に捉えてごまかしのない本当に「よい」言葉と、小手先のコピペ根性の「卑怯な」言葉は表層だけ見れば同じものとして扱われるということです。

私はそれが嫌いで嫌いで仕方なく、自分がそんな言葉遣いをしてしまったときは夜もよく眠れないし、身体が強張るようです。他人がそうしているのもやっぱり好きではありませんが、他者がそういう言葉遣いをするのは、一定哀れみをもって見ています。それは彼・彼女らのこれまでの人生において、芯から発せられる言葉というものに出会って来なかったから、また、誤魔化す大人に誤魔化し方しか教わって来なかったからなのだと思うからです。人は楽な方に流れます。それは人間の性です。

この映画のラスト、今まで長々書いてきたことを象徴する部長の言葉に僕は怖気が立ちました。字面では善意の言葉が並ぶのに、とても冷たい言葉でした。その虚しさは、現代の虚しさです。
Netflix、U-next、レンタルビデオなどでぜひご覧下さい。




間傳介 プロフィール

1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長